交流の広場「微笑苑」 011-020

第十一話 チャペル ウェディング

交流の広場「微笑苑」 No.011 チャペル ウェディング

彼岸の頃だった。説法を頼まれた私は、仲間の和尚と車で近くの町まで出かけた。
その時、あるビルの屋上の、異様な建物が目に止った。

良く見ると、一つはお宮のお社とおぼしき物、もう一つは教会のチャペルだった。
しかし間違いないのである。
その二つが同じビルに並列して建っている。

「ちょっと見て、見て」私は運転している友人の膝をつついてしまった。
彼は「またか」というような顔でチラッと目を横にやり、言ったのだった。
「知らないの、あれは結婚式場の建物だよ」

「えっ、お宮と教会と並んでいるのがかい?」

「今、流行りらしいよ。両方なければ、客がとれないんだって。」
そう言われて、よく見れば、そのビルには「○○会館」と書いてある。
私は以前、東京の電車の中で見た、某ホテルの広告を、ふと思い出した。
〈当ホテルには、素敵なチャペルも併設しています〉あの時はピンと来なかったが、今その謎が解けた思いがしたのである。

「要するに式はサービス、そのかわりに披露宴でガッポリ儲けようとい うのが、業者の狙いだからね」
今頃、気がついたのかといわんばかりに、 彼は私に話した。
「洋風にやれば文金高島田はいらないから、合理的といえば合理的だよ」

「しかし、若い者がみんなクリスチャンだとは限らないだろう」私には納得がいかない。
「ムードなんだよ、ムード。神さまなんてのは、アクセサリーだという感覚でいるんじゃないか」
ウーン、なんとも許しがたい。
日本人のいい加減さも、ここまで来れば将来に大きな禍根を残す。

そう力んだら「それなら俺たちの寺でも積極的にアピールして、結婚式でもなんでもできるようにすればいいってことか」と彼が突っ込んで来た。

「だいたい君は、批判は鋭いけど、行動は鈍い。活きた仏教を広めたいのなら、もっと社会のニーズに応えるようなお寺づくりをしなければダメだよ」と、自分を棚に上げて、耳の痛いことを言う。
でも狭い車の中では、逃げ出すわけにもいかない。
なんとか鉾先をかわす言葉はないかと考えた。

「社会のニーズってのはおかしい。我々坊さんは社会をリードしなけれ ばいかん。お寺は式場じゃない、道場なんだ。俺が目指す寺づくりは、それなんだよ」

しかし、この言葉は私の強がりでしかなかった。
なぜなら、仏の教えを信じ、仏前に永遠の愛を誓う、そんなカップルの訪れを、私も待っているんだから。

(J)

  • 2022.07.14
  • 13:09

第十二話 坊さん臭い

交流の広場「微笑苑」 No.012 坊さん臭い

「味噌の味噌臭いのは安い味噌」という言葉があります。
「どういう意味だ?」と尋ねたら、

「坊さんの坊さん臭いのは、つまらない坊さんということだよ」という答えが返って来ました。

思わずドキッとすると、相手は「臭いと、とかく鼻につくからね」といってニヤッと笑いました。

相手というのは、小学校時代からの友達です。
「おまえが近頃えらそうな事ばかり言うから、ちょっとからかってみたんだよ。釈迦に説法だったかな」と言う彼に、「いや、その通りかもしれないな」と私はお礼を言いました。

お寺の住職として生活していると、まわりの人は「和尚さん」と持ち上げてはくれても、なかなかこんな批判はしてくれません。
それでいい気になっていると、思わぬ失敗をしてしまうものです。
すると友達が言いました。

「実はな、お前にこんな 事を言ったのは、俺自身、今仕事に行きづまりを感じているからだよ。そしたら、ある本で、『褒められたい、認められたい、そう思い始めたら、仕事にどこか嘘が出る』という言葉を見つけてな。ナルホドと考えさせられたんだ」

「いい言葉だね。なんて本だい」と尋ねると、「永六輔の『職人』という本だよ。お前も読んでみたら」と勧めてくれました。

永さんは、ご存知のように東京の浅草のお寺の次男坊です。
だからお父さんはお坊さん。
そのお父さんがよく言っていたという言葉が、「私はたかが坊主です。士農工商のどの身分にも入っていないのですから」というものだったとか。

「今考えれば、親爺は心底、恥ずかしがっていました。坊さんであることが恥ずかしいのではなく、坊さんとして、まわりから立てまつられるのが恥ずかしかったようです」と思い出を語っています。

ひょっとしたら、それが味噌臭くない味噌、いえ坊さん臭くない坊さんになる秘訣なのかもしれません。

『職人』という本の中でも永さんは、「職人というのは職業ではなくて、その人の『生き方』だと思っている」と書いています。
これは、「坊さんというのは職業ではなく、坊さんとしての生き方を言う」と読み直すこともできます。
だからでしょうか、永さんは、自分は職業として坊さんではないけど、坊さんの意識を持っていると語ります。

若い頃は手を合わせるのが照れ臭かったのに、今は自然と合掌することが多くなったと言う永さん。
その永さんに、昔、お父さんが言ったそうです。
「お前の作った歌は『上を向いて歩こう』も、『こんにちは赤ちゃん』もみんなお経だな」と。
誰に認められるよりも、どんな褒める言葉よりも、嬉しかったのではないでしょうか。

(N)

  • 2022.07.14
  • 13:09

第十三話 法事のお勧めは中華料理

交流の広場「微笑苑」 No.013 法事のお勧めは中華料理

法事の席の料理と言えば、どこも似たり寄ったり。
施主には申し訳ないが、どんな料理も、さほど食欲はそそらない。

そんな事を思っていたら「和尚さん、来月のうちの三回忌、料理はどんなものにしたらいいでしょう」との相談を受けた。
こんな相談は、実に稀である。
稀だからこそ、逃す手はない。

「去年の一周忌は会席膳だったよね。それなら、いっその事、中華にしたら」

相手は、びっくりしたような顔をした。
亡くなったお婆ちゃんが、やかましい人だっただけに、それではお客に失礼になるのではという不安が走ったようだった。
「一人ひとりのお膳じゃなくていいんですか」

当然の事ながら、そんな質問が返ってきた。
「何人おまいりに来るか分からんのだろう」
うなづく相手に、「それなら中華の方が融通がつくよ。取り皿と箸を増やすだけでいいんだから」と自分の考えをゴリ押しした。

それだけに法事の当日、この作戦が吉と出るか否か、施主以上に私の方が 気を揉んでしまった。
中華は、和食と違い、あたたかくなければ、その魅力は半減してしまう。
紹介した店が、時間通りに届けてくれればいいがと気が気でならなかった。
だから日頃なら、平気で遅刻する私も、この日ばかりは、時間励行した。

無事に供養も終わり、料理も、ほどよく着いた。
後は配膳を待つばかりと思ったら、なんと取り皿と箸を忘れて来たと言うではないか。

それからがテンヤワンヤ。
家中の皿と箸を持ち出す破目になったから、作戦参謀としては立場がない。
それでも一応の用意ができたところで、施主の方から、「なにもお口に合う物はありませんが」と紋切り型の挨拶がなされた。

日本人は、どうして、いつもこうへり下って心にもないことを言うのだろう。
それに、本当に口に合わなければ、こちらの面目も丸つぶれになる。

そこで、いちばん上座に座らされた私は、一言ご挨拶申し上げることにした。

「本日のメニューは、不肖私の提案でございます。法事の席に、こんな料理をとお思いの方もあるやもしれませんが、供養の後は、美味しい物を食うようにとのアイデアです。それでは頂きましょう。乾杯…」と言いかけて、この「乾杯」という言葉を訂正した。

「先日、いい話を聞きました。こんな席では、乾杯という言葉は、感情的にどうもピッタリしないと言うのです。それでは、どう言えばいいのか。その人が提言しました。

なくなった故人に〈 献盃 〉というのはどうだろうかと。私たちもこれに習って、献盃とまいりたいと思います。献盃」

どうやらこれで、坊さんとしての面目も立った。
同時に、席も立った。
なんと言っても日曜は忙しい。次の家の法事が待っていたからだ。

だから、「和尚さんのアイデア勝ちでしたね」そんなお礼の電話をもらったのは、翌日のことだったのである。

(N・N)

  • 2022.07.14
  • 13:09

第十四話 我が子が寺を継ぐ・・・親の本音を言いましょう

交流の広場「微笑苑」 No.014 我が子が寺を継ぐ・・・親の本音を言いましょう

息子に後を継いでもらいたい。これは親たる者の本音である。

しかし、その本音を言えば、猛反撃に遭いそうな今のご時勢。
私も、息子が幼い時は、「おまえが選ぶ仕事なら、俺は何も言わない」と理解のあるような振りをしていた。
いや理解があるつもりでいた。
だから会議に出ても「世襲化こそは、宗門衰退の元凶である」などと吹きまくっていた。

その説を曲げようとは思っていない。
しかし、去年の夏、息子がシブシブながら得度し、頭を丸めてくれた時には、泣きたいほど嬉しかった。
「親爺は、言う事とする事が、ぜんぜん違う」そう批判されようとも、うれしかったのだから仕方ない。
息子が気が変わらないうちにと、この歴史的事実を檀家に吹聴してまわり、法要の席でも公表した。

「よかったですね、これでご安心ですね」と言ってくれる人が多い。
しかし、中には、「お寺の子は可哀想ですね。後を継がなければならないなんて」と息子に同情する人もいないわけではない。

いやあ、最も同情しているのは、わたし自身かもしれない。

息子の年の頃、私は、どんな事があっても坊さんにだけはなりたくないと思っていた。
だから宗立大学の仏教学部の受験料を親からもらうと、願書を出す振りをして、全部パチンコに使ってしまったことがある。

そんな事を、まさか息子には言えるはずもない。

「得度した以上、道は一すじ、迷わず大学は、宗立をめざせ」と自分とは逆の道を押し付けたのである。
そのため、息子が受験勉強をしないことにも目をつむった。
ヘタに勉強に目覚めて、他の大学を受験したいなどと言い出したら、こっちの計画はパァになってしまう。

三年ほど前だったか、知人の坊さんが、「息子が東大にパスしましてね。後を継いでくれないんじゃないかと心配なんです」と、複雑な顔で話したことがある。
優秀な子を持つことも、これまた、親の悩みとなるらしい。
女房なんかは、「そんな悩み、一度でいいからしてみたい」と言うが、瓜の蔓に茄子はならぬ。

かくして、息子はこの春、めでたく宗立大学の仏教学部宗学科に入学が決まった。

こうなれば次の作戦は、学寮に入れることである。
経済的にも助かるが、厳しく僧風教育をしてくれることが何よりありがたい。
その説得には、私ではなく、私より二つ年上の、私の弟子があたった。

「寮に入って、ちゃんとした教育を受けた方がいいぞ。あんたのお父さんは、アゴはいいけど、作法がまるっきしダメだもんな。おいちゃん、弟子として恥ずかしいよ」

聞き捨てならないセリフだが、この際、聞き流しにする方が得策のようだ。
子は、親を踏み台にして成長するという。
たとえ踏み台でもいい。
それで一人前になってくれるなら、世襲化も悪くないと言える日が来るのではないだろうかと、ただただ期待する私なのである。

(N・N)

  • 2022.07.14
  • 13:10

第十五話 お寺まいりのすすめ十箇条

交流の広場「微笑苑」 No.015 お寺まいりのすすめ十箇条

1.辺を過ぎて詣ずべし

お寺の近くへ来たらお詣りしなさい。

2.暇をつくりて詣ずべし

間をみてお詣りしなさい。暇は無いのではなく作るのです。

3.思いたくば詣ずべし

思いたったらお詣りしなさい。静かに考えるところです。

4.迷いあらば詣ずべし

悩み・心配ごとがあったらお詣りしなさい。

5.憂いきわまって詣ずべし

どうしていいかわからなくなったらお詣りしなさい。

6.志たたば詣ずべし

大事な計画や決断のあるときお詣りしなさい。

7.喜びごとあらば詣ずべし

うれしいことがあったらまっ先にお詣りしなさい。お寺は悲しいときだけ来るところではありません。

8.忌日命日に詣ずべし

自分の気持ちからすすんでお詣りしなさい。

9.招かれて詣ずべし

お寺や知人などのすすめがあったら絶好の機会です。嫌がらずにお詣りしなさい。

10.正法を求めんとして詣ずべし

お寺は正しい道を求める大切なところです。心を磨き、生きる力を与えていただきましょう。

お寺は、こころのふる里です。

  • 2022.07.14
  • 13:10

第十六話 女房が風邪で寝こんだ時

交流の広場「微笑苑」 No.016 女房が風邪で寝こんだ時

女房が、流感にやられた。熱が九度近くあると言う。
「お霊供膳どうしよう」とフトンの中から尋ねてきた。
「うん、一日くらい抜かしてもいいんじゃないか」と私はナマ返事をした。

いつもは私より三十分は早く起き、朝の支度をするのに、あんな弱音を吐くのだから、今朝はよほどまいっているのだろう。
そう思って台所に入ったが、はたして、仏さまにご飯を食べさせなくてもいいものかどうか迷った。
結婚以来、飯の支度など一度もしたことのない私である。
自分はパンでもかじっていれば済むが、仏さまにはそれもなるまい。

そんな思案をしながら、ふと見ると、炊飯ジャーのランプが光っている。
フタを開けると、なんとご飯がふっくらと炊き上がっているではないか。

そういえば、「米、俺が磨いでおくから早く寝ろよ」と息子が、女房に言ったとか。
「それに較べたら、あんたは、ちっとも優しくないわね」と言われた言葉まで思い出してしまった。 「なんの俺だって」そう決心してお霊供膳を並べたが、はてさて何をお供えしたものか。 そこで鍋を開けたり、冷蔵庫をのぞいてみたり。

「あった、あった」
味噌汁も、豆の煮物も、それに生野菜も刻んだのがパックしてある。
まるでママゴトのような作業が始まった。やれば、それなりに楽しい。

起きて来た息子に「おい、父子家庭でも、なんとかやって行けるぞ」と言うと、息子はニヤッと笑って学校へ出かけた。
こんな時に娘がいればと思わないでもないが、今さら言っても始まるまい。

楽しいとは書いたものの、こんな作業を毎朝やらされるとしたら、たまったものではない。(ちょっと不謹慎。多謝。)
なんとか格好だけはついたお膳を上げ、礼盤に座った時「同じ上げるでも、お経を上げる方がずっと楽だな」と、思わず本音を吐いてしまった。

それにしても女性の仕事はたいへんだ。
炊事、洗濯、掃除、数えればキリがない。
だから仏さまは、せめて食べる事だけでも楽をしようと毎朝、托鉢に出かけられたのじゃないだろうか。

まことに不謹慎にも、お勤めをしながら、私はそんな問いかけをしてしまった。

勿論、仏さまは「ノー」というお顔をなさっておられる。
だけど時代は変わった。
あの時から二千年も経っている。
お寺にいても、今は、お互いご飯にありつけるのだから。
そう言って仏さまに、答えを求めると「そうだね」と肯かれたように思えた。

それなら「今朝はこれで辛抱してください。たまには女房のありがたさが分かることも、これまた修行になるんじゃありませんかね。」と言った気もする。
だけど、これ以上はよそう。
しょせん男の私の言い訳なのだから。

事実、事の次第を聞いた女房は、「全部、あんたが上げたのは昨日の残り物じゃない」とあきれ顔。
「明日はやっぱり私がする」とゴホンゴホン言いながら宣言した。

寺に女性は不可欠。
そう聞けば、きっと仏さまもひと安心なさっているに違いないかなと思った私ではある。

(N・N)

  • 2022.07.14
  • 13:10

第十七話 家に帰るわよ

交流の広場「微笑苑」 No.017 家に帰るわよ

「女は三界(この世の中)に家なし」と言う。

本当だろうか。私なんかは、「女は三界に家二つあり」と訂正したくなる。

なぜって? それは時々、女房が口にする「家に帰って来ようかな」という言葉に引っかかりを憶えるからである。
そんな時、「家って、お前の家はここじゃないか」と私はからんでみる。
すると女房は、「ここは嫁に来た処、向こうは生まれた家」と平然と答える。
この寺で生まれ、この寺で育ち、この寺を継いだ私には、家は一つしかない。

しかし、女房は違う。
里の酒屋は両親も健在だし、兄妹も近くにいる。
「父ちゃんは、私に店を継がせたかったんよ」自称看板娘だったという話は、耳にタコができるほど聞いている。

それは、それでいい。
だけど夫婦間の貿易交渉が決裂した時、決まって出されるスーパー三○一条のような「いいもん、私にはいつでも帰れる処があるんだから」という言葉は許せない。
許せないけど耐えなければ、制裁は実行に移しかねられないから、夫たる者、忍の一字で嵐のおさまる時を待っている。

別に露悪趣味で、これを書いているつもりはない。
ただ、うちの女房をダシに、女の本性というものに考察を加えてみただけだ。
そして、この切り札があるが故に、女は嫁いだ家にも根を下ろし、やがて二つの家を持つ存在となるのではないだろうか。

というのも、実は回向まわりに行った家で面白い話を聞いたからだ。

その家の奥さんは、海を隔てた四国から嫁に来ている。
その奥さんがこんなことを言ったのだ。

「子供がね、私に言うんですよ。『お母さん、四国へ行く時、帰るって言うだろう。それなのにこっちに帰る時も、帰るって言うよね。どうして?』って」

私は思わず吹き出した。
彼女にとって、どちらに行くことも、帰ると表現しても、なんの矛盾もない。
その点では、女房と同じだ。
だけどこっちで生まれ育った彼女の子供にとっては、まったく理解しがたい言葉なのだ。
彼らにとっては、たとえ母親の生家であろうと、そこは自分たちの古里ではないのである。

「ザマー見ヤガレ」こんな品のない言葉は、もちろん、口には出さない。
だけど、この素朴な質問には双手を挙げて賛成する。

「たとえ娘の産んだ子でも、外孫は外孫でしかありませんよ」あるお婆さんが言ったそんな言葉を思い出したのも、この時だった。

そこで寺に帰ると、さっそく私は、女房にこの話の一部始終を話したのである。
ところが、女房の方は、またも平然としたもの。

「子供は、自分たちの生命のルーツを知らないから、そんなことを言うのよ。子供にしたって、よく考えれば、生命の古里はお母さんの家にもあるということがわかるんじゃない」
なんとも女性は、直感的な生き物である。

「だって、仏さまを信じることだって、帰依とか帰命と言うじゃない。つまるところは、みんな帰る処を求めていると言うわけよね」と。

(M・N)

  • 2022.07.14
  • 13:11

第十八話 合掌で光を

交流の広場「微笑苑」 No.018 合掌で光を

合掌とは、古来よりインドで行われた礼法で、今日でもインド、タイ、ビルマ等では、仏さまを拝むときだけでなく、隣人どうしの挨拶に使われています。
これは相手に対し、尊敬の念を示す姿を表現したものだからです。

手にはいろいろな表情があります。
相手の姿に惜しみない賞讃を送る拍手、相手の気持に共感を示す握手、相手に限りない感謝をあらわす合掌、なかでも合掌は相手に対して尊敬の心をもって礼拝するという意味も持っています。

人の心には、千差万別の世界があります。
例えば、人が地獄と極楽の心を併せ持っているように、そのどちらを見つめて生きるかは、個人の自由ですが、できれば限りなく大らかな世界を願う生き方をしたいものです。

両手を合わせる 両手でにぎる
両手で支える 両手で受ける
両手の愛 両手の情
両手合わしたら喧嘩もできまい
両手に持ったら壊れもしない
一切衆生を両手に抱け

(詩 坂村真民)

  • 2022.07.14
  • 13:11

第十九話 学習塾へ物申す

交流の広場「微笑苑」 No.019 学習塾へ物申す

息子が小学生の頃だった。
全国チェーンの算数教室の本部から偉い講師の先生が来て話をするので、父兄に出席してほしいといわれた。

父兄会といっても、昔から子供のことは母親が行くものと思っていたから関心がなかったのに、なぜか父親の私に話を聞いてほしいとの連絡である。

仕方なく会場のホテルに出かけたが、案の上、場内は女性でいっぱい、男は麦飯の麦程度の人数である。
だからだろうか、わざわざ前の方の席に案内された。

大阪から来たという講師が、得意満面に話を始めた。
教育関係者というよりは、会社の営業課長という感じの男である。
彼は、早期教育がどれほど大切であるか、そしてその会社(失礼)いや教室が、いかにそのために貢献しているかと話し続ける。
算数のみならず、国語、英語と、彼の話によれば、指導に従っていけば、必ず親の願いは叶うという。

うちの息子を見るかぎりガマの油売りより信じられない話だ。
そう思いながらじっと時間の経つのを我慢していたら、彼は「みなさん、これからの時代は、学校を当てにしてはいけません。
頼りにすべきは、私たちの教室です」といって「寺小屋」という字を黒板に書き、「この寺小屋式の教室こそ子供たちの実力を養成するのです」とトーンを上げた。

母親たちは蛇にみこまれた蛙のごとく、シーンとして話を聞いている。
早く帰りたいと思った。
でも前の方の席では立つというわけにもいかないでは ないか。

「何かご質問は?」という司会役の女性、彼女が息子の担任なのだが、私をノミネートした。
こうなったら、うさ晴らしである。

「失礼ですが、あなたがお書きになった寺小屋という字は、寺子屋の間違いです」そう先制パンチを喰らわせた。
そして「学校を当てにするなというような発言は不愉快です」と抗議した。

「世の母親たちはそれでなくても学校不信に陥っています。親が学校を信頼せず、塾に頼りきりになるのが、正常な教育の姿と思いますか。」

私自身九ヶ年、学習塾をやった経験があるから、講師の言い分が分からないわけではない。
しかし父親としての立場は、また違うのだ。

「塾はあくまでもヤミの学校、その認識をもって指導してもらいたい」

当然のこと、その場はシラケた。
ただありがたいことに、私の他にも同種の発言をしてくれた父親がいた。

それにしても、我が子のこととなると集まってくるこの母親たちのエネルギーはすごい。
鬼子母神顔負けである。
ひょっとしたら、学習塾というのは、現代社会が生み出した別種の新興宗教といえるかもしれない。
このエネルギーを吸収出来たら、お寺の社会的復権も夢ではないのに。

帰り道の私は一人、そんなことを考えたのである。

(J・N)

  • 2022.07.14
  • 13:11

第二十話 お宮に祀られた"観音さま"

交流の広場「微笑苑」 No.020 お宮に祀られた観音さま

信者の老女が、山のお宮に観音さまのお社を、建立寄進することになった。
私にも出席してほしいと言う。

「お宮に観音さま?」
お寺というのなら分かるけど、どうも合点がいかない。それでも興味は津々、女房と二人出かけることにした。
神社に招かれるなんて、滅多にないことだからである。
境内には、総工費一千万円というお社が、見事に完成されていた。

「お社に入った観音さまか」
手は合わせたものの、なんとなくピンとこないのである。
やがてドンドンピーヒャララという音と共に神事が始まった。
来賓の私は、神官の真後ろにすわった。

祝詞が終わり、玉串奉奠、二礼二拍して、心の中でお経を唱えた。
まさか神事の最中、大きな声で読経をするわけにもいくまい。
「和尚さまには、後でお経をあげていただきますから」
と老女に頼まれていたから、ここはおとなしくしていようと思ったのだ。

ところが神事が終わった途端、「それでは引き続き、ただ今より仏式による開眼入魂式を挙行します」と司会者が言った。

びっくりしたのは私である。
神官には内緒で、こっそり読経するものだとばかり思っていたからだ。
あわてて法衣に着がえ、袈裟をつけると、「それでは負けてなるものか」とハリキッて読経した。

すると女房が唱和した。
女房だけではない。
お経になると参拝者のほとんどが、声を出していたのである。

私は感激した。
これが、お宮の境内地での出来事だっただけに、いいようのない感動を覚えたのだ。

そして、式次第の中に、仏事を入れてくれた神官の心の広さにも敬意を表した。

「日本は古来、神仏は一体なんですよ。神さまでも、ありがたいお経は喜んで受け取ってくださる、わしはそう思っとります。だから、うちのお宮に観音さまがいらっしゃったら、お詣りも多くなるんじゃないですかの。ワハハハッ」

老女は、この神官の性格を見抜いていたのだろう。
神仏世界の統一とは、まさにこのことだろうか。

(J・N)

  • 2022.07.14
  • 13:11

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