交流の広場「微笑苑」 011-020
第十七話 家に帰るわよ
「女は三界(この世の中)に家なし」と言う。
本当だろうか。私なんかは、「女は三界に家二つあり」と訂正したくなる。
なぜって? それは時々、女房が口にする「家に帰って来ようかな」という言葉に引っかかりを憶えるからである。
そんな時、「家って、お前の家はここじゃないか」と私はからんでみる。
すると女房は、「ここは嫁に来た処、向こうは生まれた家」と平然と答える。
この寺で生まれ、この寺で育ち、この寺を継いだ私には、家は一つしかない。
しかし、女房は違う。
里の酒屋は両親も健在だし、兄妹も近くにいる。
「父ちゃんは、私に店を継がせたかったんよ」自称看板娘だったという話は、耳にタコができるほど聞いている。
それは、それでいい。
だけど夫婦間の貿易交渉が決裂した時、決まって出されるスーパー三○一条のような「いいもん、私にはいつでも帰れる処があるんだから」という言葉は許せない。
許せないけど耐えなければ、制裁は実行に移しかねられないから、夫たる者、忍の一字で嵐のおさまる時を待っている。
別に露悪趣味で、これを書いているつもりはない。
ただ、うちの女房をダシに、女の本性というものに考察を加えてみただけだ。
そして、この切り札があるが故に、女は嫁いだ家にも根を下ろし、やがて二つの家を持つ存在となるのではないだろうか。
というのも、実は回向まわりに行った家で面白い話を聞いたからだ。
その家の奥さんは、海を隔てた四国から嫁に来ている。
その奥さんがこんなことを言ったのだ。
「子供がね、私に言うんですよ。『お母さん、四国へ行く時、帰るって言うだろう。それなのにこっちに帰る時も、帰るって言うよね。どうして?』って」
私は思わず吹き出した。
彼女にとって、どちらに行くことも、帰ると表現しても、なんの矛盾もない。
その点では、女房と同じだ。
だけどこっちで生まれ育った彼女の子供にとっては、まったく理解しがたい言葉なのだ。
彼らにとっては、たとえ母親の生家であろうと、そこは自分たちの古里ではないのである。
「ザマー見ヤガレ」こんな品のない言葉は、もちろん、口には出さない。
だけど、この素朴な質問には双手を挙げて賛成する。
「たとえ娘の産んだ子でも、外孫は外孫でしかありませんよ」あるお婆さんが言ったそんな言葉を思い出したのも、この時だった。
そこで寺に帰ると、さっそく私は、女房にこの話の一部始終を話したのである。
ところが、女房の方は、またも平然としたもの。
「子供は、自分たちの生命のルーツを知らないから、そんなことを言うのよ。子供にしたって、よく考えれば、生命の古里はお母さんの家にもあるということがわかるんじゃない」
なんとも女性は、直感的な生き物である。
「だって、仏さまを信じることだって、帰依とか帰命と言うじゃない。つまるところは、みんな帰る処を求めていると言うわけよね」と。
- 2022.07.14
- 13:11
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