伝道シリーズ第1弾 No.001-010

No.001 貧者の一灯

伝道シリーズ No.001 貧者の一灯

真心の尊さを説くのに〈貧者の一灯、長者の万灯〉という諺(ことわざ)がよく使われます。
この言葉の由来は、仏さまに捧げられた一つの小さな灯明の物語に始まります。

ある日、マガダの国でお釈迦さまの法座が開かれた時のことです。
遇(あ) いがたき仏との縁を歓(よろこ)んだ一人の女性が、何かご供養したいと願いました。
ところが貧しい彼女には、一文(いちもん) のお金もありません。
そこで自らの髪を切り、それを売ったお金で、わずかばかりの油を求め、法座を照らす明(あ) かりとしたのです。
仏の御前(みまえ)には、多くの人々に供えられた数えきれないほどの灯明が並んでいます。

それらのどれよりも、みすぼらしく小さな彼女の灯明。
しかしその時、にわかに巻き起こった風が次(つぎ)々に灯明を吹き消していったのです。
あたり一面が真っ暗闇になり、人々は怖れおののきました。
その中にあって、たった一つ、この貧女(ひんにょ)の捧げた灯明だけが、いつまでも光り輝いていたというのです。

「供養とはけっして世間体などを飾って、誇示するものではない。たとえささやかでも自分の真心をもってするのがいちばん尊いのだ」

という仏さまの声が聞こえてくる気がしませんか。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.12
  • 16:40

No.002 母の恩

伝道シリーズ No.002 母の恩

親が子を大切に育てることを〈手塩(てしお)にかける〉といいます。

この手塩、元来は食膳に塩を盛った小皿があったことに由来するそうです。
その塩を自分の手でつまんで、めいめいが好みの味つけをした。
そこから転じて、子育てに気 を配ることの意味にもなったといいます。
だから辛すぎても、甘すぎてもいけないのが手塩のコツ。

いつだったかテレビで「お母さんが、おにぎりを作る時、手にお塩をかけて握るでしょう。
子供にお腹いっぱい食べて欲しいと願いながら握るおにぎり。
それこそ教育の原点です」という話を聞きました。
どんなご馳走よりも母親の愛情のこもったおにぎりは、子供にとって生涯忘れられないもの。
ちょっぴり効いた塩味は、叱られた時にこぼした涙の思い出にも繋つながるかもしれません。

「お袋には、苦労をかけたなあ」そう思ったら、今度はこちらがお返しをする番。

たまには、あなたの逞しいその手で「ありがとう」とお母さんの手を握り返してあげて下さい。
親は、それだけでも、育てた甲斐があったと喜んでくれるものなのです。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.12
  • 15:52

No.003 文殊(もんじゅ)の知恵

伝道シリーズ No.003 文殊(もんじゅ)の知恵

人間、一人でできることなんてたかが知れています。それでは、どうすればいいんでしょう。

「三人寄(よ)れば、文殊(もんじゅ)の知恵」という諺(ことわざ)があるのはご承知(しょうち)でしょう。
文殊というのは、仏さまのお側(そば)にお仕えしている獅子(しし)に乗った菩薩(ぼさつ)さま、知恵をつかさどる方だといわれています。
もちろん、私たち凡夫(ぼんぷ)に、そんな偉い菩薩さまにかなう知恵があるはずはありません。
それでも、「三人寄れば」と但(ただ)し書きのある点に注目しましょう。

たしかに一人ひとりの知恵はしれたものでしょう。

でも、みんなが、それぞれの考えを出しあえば、決して菩薩さまにも負けないぞとこの諺は言いたいのではないでしょうか。

かつて戦国武将の毛利元就(もとなり)は、三人の息子たちに矢を与え、一本ずつなら折れやすいが、三本まとまれば容易に折れるものではないと教え、兄弟仲良生きるよう諭(さと)したと言います。
現代に生きる私たちにも、この知恵は必要ではないでしょうか。

百獣の王ライオン<獅子>を倒(たお)すのに、無数のアリが団結したという西洋の童話もあります。
みんなが我を離れ、全体の事を考えるようになったら、文殊さまだってマイッタというかもしれませんよ。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.12
  • 15:53

No.004 あるがまま

伝道シリーズ第1弾 No.004 あるがまま

春の新芽が、夏には青葉と茂り、秋が深まると共に木々は紅葉します。
そして木枯らし吹きすさぶ冬の訪れ。
日本の四季は、仏の説く無常観-すべてのものは、うつろいゆく、一時(ひととき)としてとどまることなしという教え-のそのままを自然の中に映し出してくれます。

どんなに抗(あらが)おうと、ついには、この自然に還って往(ゆ)く私達の命(いのち)。
そんな感慨を持った時、人生をあるがままに生きた良寛さんの〈裏をみせ、表をみせて、散るモミジ〉という辞世の句に、ふと共感を憶えます。

いずれは去ると分かってはいても、今この時の生命にしがみつきたくなる私達。
寒空に散り残った柿の葉一枚にも、生への執着を感じるのが人の情。

そんな凡夫の心の裏表を知り尽くしているのが仏さま。

悩みは悩みのままに、悲しみは悲しみのままに、そっと包み込んで私達を安らぎの世界へ導いてくださいます。

そんな仏さまの慈悲を見つけられたとしたら、あなたの人生の味わい方も、きっと深まることでしょう。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.13
  • 12:04

No.005 心の蔵

伝道シリーズ第1弾 No.005 心の蔵

心は不思議な生き物です。姿もなければ、形もありません。
まさに「意(こころ)は微にして見がたし」(法句経)というべき存在です。

ところが、見えなくても、私たちの在るところ、どこにでも付いてまわるのが、この心。
「欲に随いて行く」と経文にあるがごとく、いろんなトラブルを引き起こします。

だからでしょうか、人は時として「無心になれ」といいます。
でも、それは、「心を失え」ということではありません。
欲を離れて、心の在るべき姿を見つめてみよということです。

仏教では、心の奥にある世界を“アーラヤ識”といいます。
アーラヤとは、「蔵」という意味のインドの言葉。

その心の蔵に光をあてられたのが、お釈迦さまです。

だから、迷いのままの心の状態を「無明の世界」といいます。
光に照らし出された蔵の中には、いったい何があったのでしょう。
我楽多(がらくた)もいっぱいありました。
でも素晴らしいものがあったのです。
それは、他を生かす歓び。

お釈迦さまはこれを“仏性”と名づけられました。
そして誰にでも、それは備わっていると説かれたのです。

あなたも一度、心の蔵を覗(のぞ)いて見てはいかがでしょうか。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.13
  • 12:09

No.006 心に咲く花

伝道シリーズ第1弾 No.006 心に咲く花

百花撩乱(ひゃっかりょうらん)、春は花が主役の季節。
出番を待っていたかのように咲き乱れる花々に彩(いろど)られ、自然は躍動し、生命(いのち)の歌を唄います。

今とばかりに美を競い合う多くの花々。
それは、青春を謳歌する若者の姿のようでもあります。
でも「花の生命(いのち)は短くて」と喩(たと)えられるのが、私たちの人生。
ただ華やかさを求めるだけでは、悔いが残るばかりです。

だからこの季節、名もない草花に目を転じてみるのも、また楽しいものです。
目を奪われるような豪華な花より、人知れず咲いている野の花に、心安らぐ美しさを発見することがあります。

かつて俳聖・芭蕉は、その旅の道すがら〈山路来て、なにやらゆかし、すみれ草〉の一句を詠(よ)んだとか。
ひっそりと、しかし精いっぱいに咲いている一輪の花に、芭蕉は本当の美しさを感じ、生命(いのち)の尊さを悟さとったのかもしれません。

見てくればかりに気を取られ、外面を飾るだけでは、鼻につく人間になってしまいます。

短い人生だからこそ、精いっぱいに生き、心に咲く花を育てなければなりません。

そうすれば、人生、一生青春です。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.13
  • 12:14

No.007 行雲流水

伝道シリーズ第1弾 No.007 行雲流水

一所(ひとところ)にとどまらずに各地を行脚(あんぎゃ)するお坊さんのことを〈雲水(うんすい)〉といいます。
この呼び名の本(もと)になるのは、〈行雲流水(こううんりゅうすい)〉という言葉、空に浮かんで行く雲と野を流れる水という。
いかにものんびりした風景をあらわす言葉です。

転じて、少しの執着(しゅうちゃく)もなく、淡々として成り行きに身をまかせる生き方を意味するとあります。
旅に出かけた雲水は、自然と語り、自然に学び、“人”のあるべきようを我が身に問うのでしょう。

どんなにしがみついても、離したくないと思っても、すべてのものは移(うつ)ろいゆくと説く仏教の哲理。
それを肌身に教えてくれるのは、大自然です。
都会の雑踏の中にばかり居ては、ガツガツした人間になってしまいます。
たまには野に出かけ、空を仰ぎ心を解き放つことが必要です。

お釈迦さまは、常に静かな処(ところ)を求め、深い瞑想(めいそう)の中から、人生の悩みに対する答えを導き出されました。

欲にとらわれない眼でなければ、真実の姿は映りません。
私(わたくし)なき心でなければ、真理は耳に届きません。

〈諸法実相(しょほうじっそう)〉とは、あるがままを自然に学べという仏の私た ちへの語りかけなのです。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.13
  • 12:18

No.008 泥中の蓮華

伝道シリーズ第1弾 No.008 泥中の蓮華

悩みや苦労は、誰もが抱えています。でも誰も望んで苦悩する人はいないでしょう。

たしかに今の世間は、泥沼(どろぬま)のようなもの、悪のメタンガスも充満しています。
「世の中は変わってしまった」と嘆く老人もいれば、「人間ってそんなものさ」とうそぶく若者もいます。

しかし、迷ってはいけません。

そんな泥沼の中にも、蓮華は清らかな花を咲かせます。

世間から逃げないで、しっかりと根をおろし、強く生きたいものです。

「微笑みの花は、挫折(ざせつ)の泥沼に咲き、歓喜の果実は、精進(しょうじん) の田に稔(みの)る」そう信じて、あなたが一生懸命にがんばって生きて行けば、その苦労こそが、本当にありがたい体験だったと思える時が来ることでしょう。

蓮華の花。
それは、私たちの生き方のシンボルだと言えるでしょう。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.13
  • 12:22

No.009 善知識

伝道シリーズ第1弾 No.009 善知識

人生は人と人との出会いです。
まったくの知らない者同士が、ふとしたキッカケから一生忘れられないような友だちになるのはよくあることです。
そうかと思えばちょっとしたことで傷(きず)つけ合って別れてしまうこともあります。

でも、一人ぼっちでは生きられない私たちは、いつも心のどこかで本当に慰(なぐさ)め合い、励(はげ)まし合える友だちを求めているものです。

どんなに人間嫌いの人だって、何かを友にして、生きているものです。
〈共(とも)〉に人生を、分(わ)かちあってくれるもの、それが〈友(とも)〉という言葉の始まりではないでしょうか。

しかし、友も友によりけりです。昔から「朱(しゅ)に交まじわれば赤くなる」という言葉があるように、善(よ)くも悪(わる)くも影響し合うのが友です。
お互い信頼し成長し合うような友だちを選んでください。

仏教では、自分が悟(さと)りを開く縁を作ってくれる人のことを「善知識(ぜんちしき)」と呼びます。
友は、お互い善知識でなければなりません。

「朋(とも)有りて遠方より来る。
亦悦(またよろこ)ばしからずや」(論語)というような友だちを、私たちは持ちたいものです。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.13
  • 12:30

No.010 分かちあう人生

伝道シリーズ第1弾 No.010 分かちあう人生

一人で歩めば心細い道も、連れがあれば楽しくなるもの。
人生も同じで、夫婦はお互いを「連れ合い」と呼び、共に生きることを「連れ添う」といいます。

一人では耐えがたかったことも、分かち合えば、苦は半減、楽は倍増。
共に歩んだ人生を「お前がいたから」「あなたのお陰で」と語り合えるのが夫婦というものでしょう。

英語で、夫が妻のことをベターハーフ(よりよい半分)というのも、そんな気持ちのあらわれなのかもしれません。

でも、最近では、分かちあうという意味が変わってきました。
たとえ夫婦でも、その関係は五分と五分、権利も責任も平等に分けあうという考え方がそれです。
それでは二人は、よりよい半分どころか、真二つに割れた仲、楽しい時はとにかく、苦しい時は、ハイそれまでよという夫婦になりかねません。

たとえ体は別々でも心を一つに合わせるのが、分かちあう本来の意味ではないでしょうか。

ところで、もし、「今、自分はひとりぼっちだ」と思っているあなた。
たとえ一人ぼっちだとしても心配しないでください。
仏さまは、必ずあなたを見守ってくださっています。
苦楽を悟ってこそ人生、悟苦楽(ごくらく)とも読めるのですから。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.13
  • 12:34

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