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No.028 愛の鞭

  言うのも、言われるのも嫌なのが小言。しかし、言うべき時には、嫌われてでも言っておかなければ、大事になりかねません。
 「仏の顔も三度」という言葉があるのはご存知でしょう。いかに慈悲深い仏さまでも、三度も顔を撫でまわされては、怒ってしまうという、これは狂言「貰い聟」に出てくる台詞だとか。
 でも、悟りをお開きになった仏さまです。顔を撫でたくらいで、本心からお怒りになるとは思えません。そこで、怒ったふりをなさったのだと考えてみました。
 時として、私たちは相手の恐い顔を見て、ハッとすることがありますよね。たとえば、お不動さまや鬼子母神さまは、とても怖い顔をなさっています。「どうして、あんなお姿を拝むのですか?」と尋ねる人もいますが、あれは私たちの心の中に起る煩悩や魔を降伏せんがために表している形相だとか。
 やさしい顔ばかりしていては、甘やかし、かえって人間を駄目にしてしまうとお考えなのではないでしょうか。
 世間にも“愛の鞭”という言葉があります。本当に、相手のことを思うのなら、時には厳しい言葉も、必要ではないでしょうか。
(寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.027 掌中の珠

  「たまごっち」というゲーム機が、大流行したのを憶えていますか。
 日本中、どの子もこのオモチャを欲しがり、アメリカでもブームを巻き起こし、はては中国製の贋物までが登場する始末でした。
 でも流行というのは、いつの時代もはかないもの、いつの間にか忘れ去られ、夢中になった子供達も、いまでは大人になりました。
 しかし、このゲーム機が爆発的な人気を得た理由を、私は忘れません。
「どこが面白いの?」と尋ねたら、「タマゴが、ひよこになり、どんどん成長すること」と子供達は素直に答えました。一人っ子だったり、兄弟姉妹の少ない現代っ子には、年下の子の面倒を見るという体験が、ほとんどありません。だけど、彼らの心の中にも、そんな優しさがあると知って、なぜか、ホッとしました。
『掌中の珠』という言葉があります。手の平の中にある珠、「最も大切にしているもの」という意味ですが、愛する我が子の喩えとしてもよく使われます。
 仏さまは、他者を愛おしむ気持は、誰の心に中にもあるとおっしゃっています。
 それならばあなたも手を合わせて、心の玉子をあっためてみませんか。きっと可愛いひなが誕生することでしょう。
(寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.026 志(こころざし)を大きく

  私たちの国の名は“日本”、それは日の出る本の国という意味です。ニホン、あるいはニッポンと音のまま読むようになったのは、奈良時代からだとか。それ以前は、日本と書いても「やまと」と読んでいたそうです。
 ところで、飛鳥時代、推古天皇の摂政だった聖徳太子は、当時、中国大陸を統一していた隋という国と国交を結ぼうと考えました。いわゆる遣隋使の派遣です。
 その『国書』の最初にしたためられたのが、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」という言葉。
 これを見た隋の王さまは、カンカンに怒ったそうです。小さな島国の主が、大国の皇帝に対して、なんという無礼だと思ったのでしょう。
 しかし、太子のこの堂々たる態度が後に王さまを感服させ、対等な国交を開かせるもとになったと言います。
 世界的不況の中、何かと言えば袋叩きに遭っている現代の日本。日はまさに沈まんとしている感があります。
 こんな時こそ、日本国民としてのプライドを持ちましょう。決して卑屈になることはないのです。大いなる平和を求める国、大和(やまと)。たとえ国土は小さくても、志は大きくあらねばならないと思うのです。
(寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.025 名前より本質

  フランスのパスカルという思想家の言葉に「人間は考える葦(あし)である」という言葉があります。
 数学者でもあり物理学者でもあった彼は、実によく物事を考える人でした。台風情報でよく耳にする“ヘクトパスカル”という気圧の単位は、彼が発見した圧力の原理に因んで、付けられたものです。
 しかし、そんなに偉いパスカルでも、この名言の後には、「されど弱き葦である」といい遺しています。葦は、川や沼の岸辺に群生し、二~三メートルにも成長するイネ科の多年草ですが、背が高いために風にも靡きやすくなります。  それと同じように、人はなかなか信念の定まらない者です。
 イカを干した鯣(するめ)のことを、あたりめなんて言ったりもしますね。それと同じ感覚なのでしょうか、昔の人は、「あし」という読みは、「悪し」を連想させるからと、「よし(善し)」と読みかえたのだそうです。葦の茎で作ったすだれを葦簀(よしず)と言いますよね。
 だけど、「葦(よし)の随から天覗く」と言うような狭い量見の人にはならないように、お互いに努力をしましょう。
(寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.024 自然の声

 秋は、爽やかという言葉が、ぴったりと来る季節。肌を撫でる風が、夏の疲れも癒してくれます。
 風の便りに聞けば、たれパンダなるキャラクター商品があるとか。その人気の秘密は、垂れ目のパンダの頼りなさそうな顔を見てると、なぜだか心が癒されるからだそうです。もっとも、ある人に言わせると、「あんな人形のどこがいいのか」と不思議がっていましたが、人それぞれ、それはそれでいいのじゃないでしょうか。
 ところで、秋を演出してくれるもう一つのものと言えば、なんと言っても虫の声。リーンリンと鳴く鈴虫や、チンチロリンという松虫の音は、秋の夜をいっそう思い深いものにしてくれます。おっと忘れていたのがクツワムシ。決して美しくはないけれど、あのガチャガチャという音は、「儂も頑張ってるぞ」とその存在をアピールしています。
 きっと、昔日の修行僧も、自然の声に耳を傾けていたことでしょう。
 名僧・高僧の思索には、遠く及ばないけれど、疲れた心を癒すという意味で、虫の声にわが心を聞くことも良いのではないでしょうか。
 もの思いにふける、それはやっぱり秋ですね。 (寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.23 雲の上は、いつも青空

 雲水と言えば、行方を定めず行脚する修行僧のこと。
これは「行雲流水」という言葉に由来します。  人は、空を行く雲と流れる水のように、自然に身を任せた生き方に僧のあるべき姿を求めたのでしょうか。こんな時、ふと目に浮かぶのは、青空にポッカリ浮かぶ白い雲ですよね。
 でも、仏教には〈雲心〉という言葉もあるんです。これは逆に、雨雲に覆われたような鬱陶しい、心の晴れない状態です。思わず、「来年の今月今夜、再来年の今月今日のこの日を僕の涙で曇らしてみせる」といった『金色夜叉』の貫一の恨み節を思い出しました。
 こんな雲は、迷い雲。それを見事に払いのけたのは維新の先駆者、吉田松陰でしょう。彼は、「事態が悪化し、豪雨の前の空のように陰々として暗くなればなるほど、その密雲の上の固有の蒼天(青空)を思うらしい。むろん、誰の目にも見えないのだが、松陰の目には網膜が青く染まるほどのあざやかさで、(蒼天を)思うようであった」と司馬遼太郎は語っています。
 先行き不透明と言われるこの時代ですが、私たちも恨み嘆くより、雲の上の空を見る心こそ、今必要な時なのではないでしょうか。 (寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.022 素直な心

 菩提心、それは仏の道に入り、悟りを求める心を意味します。
 もちろん幼い子に、そんなむつかしい道理が分かるはずがありません。ところがあるお経には「童子が戯れに沙を聚めて仏塔を作ったり、仏の像を描いたりするのもこれまた仏道である」という教えが出てきます。
 仏さまの眼から見れば無心に遊ぶ子供たちの姿の中にも、菩提心はあるということなのでしょうか。そういえば、幼い子供は、みよう見真似で小さな手を合わせます。それにどんな意味があるのか、なぜそうなるのか知らないままに合わせる両の手。それでいながら、そこには不思議なほど仏さまの世界との一体感が感じられます。
 言い方をかえれば、大人より子供たちの合掌の姿の方がずっと絵になるのです。子供は純粋無垢という点で私たちより仏さまの世界に近いのではないでしょうか。
 だから素直な心そのものが菩提心と受けとめてみてもいいのかもしれません。なぜなら私たち大人でさえ、あの日の穢れなき童心に戻りたいと願って手を合わせているのでは、と思いあたることがあるからです。
(寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.021 慈悲

 私たちのまわりにはいろいろな愛があります。
 異性を愛する愛、子を思う愛、親を慕う愛、友情で結ばれる愛、数えあげればきりがないほど、この世の中には、愛がさまざまの姿をもって存在しています。
 人は、愛ゆえに喜び、悲しみ、助け合い、憎しみ合います。考えてみれば、愛ほど魅力的なものはないのに、また、これほど始末のわるいものはありません。
 慈悲とは、そんな人間の愛を越えた仏さまの愛をあらわす言葉です。
 私たちの愛が、特定の人にそそがれるのに対し、仏さまの愛は無限の広がりをもっています。
私たちの愛が、特定の人にそそがれるのに対し、仏さまの愛は無限の広がりをもっています。私たちが愛の裏に憎しみを隠しもっているのに対し、仏さまは絶対の愛をお持ちです。
私たち生きとし生けるものすべてを仏さまと同じ心の世界へ入らしめようと、ある時は励まし、ある時はいたわり、やもすればヤケッパチになりがちな私たちを見守り導いてくださっています。
 そんな仏さまの愛は、私たちの心の奥底にもあるのです。ほんとうの愛を知った時、私たちは本当の愛をつかむことができるでしょう。 (寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.020 仏性の傘

 一日降っただけでも、うんざりする雨。そのくせ人は雨に思いを託し、いろんな詩をうたいます。
 それは渇ききったこの世の中に、せめてもの潤いが欲しいと願うからでしょうか。
 幼い頃うたった♪雨、雨ふれふれ、母さんが、蛇の目でお迎え、うれしいな。ピチピチ、チャプチャプ、ランランラン♪という童謡を思い出します。傘を持って迎えに来てくれた母・・・。時代がドライになればなるほど、こんな情景が懐かしくなるのかもしれません。
 だから人生の寂しさや、やるせなさは、あたかも私たちの心の中に降りしきる雨。誰かがそっと傘を差しかけてくれるのを待っているのです。
 そんな時、出会った人の情けは身にしみます。ずぶ濡れで冷えきった体に、ぬくもりが戻ってくるように「生きていてよかった」という温かい感動が甦って来ます。
 ひょっとしたら私たちは、こんな心のふれあいを知るために、この世に生を受けているのかもしれないのです。
 無情の雨というなかれ。それは時として乾天の慈雨となることもあるのですから。 (寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.019 彼岸への渡し船

 彼岸とは、仏さまの悟りの世界、それに対して私たちの住む迷いの世界を此岸と呼びます。
 この二つの世界の間に流れているのが三途の川。この川には、その名のごとく火途(地獄道)・血途(畜生道)刀途(餓鬼道)の三つの瀬があり、人は死後、その行いや罪の重さによって、いずれかの途を渡らねばならないといいます。
 そこで仏さまは人々に「今までの生き方を悔い改めよ」と懺悔の法を説き、救いの“船”を用意されるのです。
 どんなに大きな石でも、船に乗せれば水に浮かぶように、罪の重さで、苦しみの底に沈もうとする人々に、大切なのは素直に反省する心です。
 自分は何一つ悪いことをしていないから、そんな必要はないなんて思わないでください。たとえ小さな針でも、そのままでは水の底に沈んでしまいます。
 迷いの岸から、悟りの岸へ。あなたの合わす手と手の中に、仏さまの“渡し船”はいつでも用意されているのです。 (寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.018 忠告を聞ける心を

 他人に自分の欠点を指摘されるのは、決して愉快なことではありません。時には「余計なお世話」と腹の立つことさえあります。
 しかし、こちらのためを思って言ってくれると感じたら、あまり我を張るのは考えものです。やたら、拒否反応を示すばかりでは、「この人は度し難い」と、相手からもソッポを向かれてしまいます。
 〈度す〉とは〈救う〉という意味の仏教語です。いくら、仏さまのような人でも、相手にその気がないと救う手立てがありません。
 欠点は誰にでもあります。それも、他人から指摘されて、初めて気づく場合が多いのです。
 心に「よくぞ注意してくれた」というゆとりを持ちましょう。そう心がければ、たとえ悪口と思える言葉でさえ、こちらの受け取り方しだいで善言にも転じてくるのです。
 ひょっとしたら、恨む気持ちは消え、感謝の念さえ起こるかもしれません。
 あの時言われた一言に、いつまでもこだわるより、今ではそれが心の道標になったと思える生き方を求めてください。〈人間、いわれるうちが花〉という言葉もあるのですから。
(寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.017 因果の種蒔き

 仏さまは因果の法を説かれます。この世に在るものには、すべて原因があり、その結果は必ず生じる。一言で言えば、簡単なこの法も、現実に目を向けると、矛盾だらけ。善人がしいたげられ、悪人がのさばってる世の中に「何が善因善果、悪因悪果だ」と文句を言いたくもなります。
 でもそんな私達の不平不満を、仏さまはとっくに、お見通し、「善を施すに、その報いを求めてはならない」と戒められます。
 「それじゃあ、善いことをするだけ損だ」と反論する人がいるかもしれません。しかし「善いことをできるだけ、自分は幸せだ」と素直に受けとめる人もいます。
 だからこの法は、善因楽果・悪因苦果だと考えるべきだとも言われます。
 善いことをすれば、心が楽になり、欲の苦の海から救われるという解釈です。たとえ貧しくとも、今をありがたいと生きている人、いくら財産があっても、心のゆとりを持たない人、その結果がどうなるか想像がつくでしょう。
 仏さまの説かれるように、やはり因果の種はちゃんとその芽を出すと考えるべきなのです。
(寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.016 信仰の機織り

 お経といえば、仏さまの教えのこと。でも、〈経〉という字を引くと、ちょっと違った意味に出会います。
 それは〈タテ糸〉という意味、布施のもとになるタテ糸のことです。ヨコ糸は〈緯〉といいます。今でも地球上の位置を示すのに、経度、緯度という用語に、この意味が使われています。
 さて、機を織るには、まずこのタテ糸を張り、次にヨコ糸を織り込んでいきます。
 このことからタテ糸は、つねにまっすぐに通った道、すなわち“不変の道理”という意味に転じ、教えをあらわす書物を〈経〉と呼ぶようになったのです。
 こう知れば、仏さまの教えは宇宙に張りめぐらされた真理のタテ糸。ヨコ糸を織りこむのは、今生きている私たちではないのかと考えられます。
 どんな真理でも、それを活用する人間がいなければ、この世にはあらわれません。だから、仏さまは、私たちに信仰の機織りをしなさいと呼びかけてくださっているのではないでしょうか。
 心に仏さまとのご縁を結び、それぞれの人生模様を織りこんでください。それが、あなた自身の布教にもなるのです。 (寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.015 学ぶ心得

 物事の真の姿をはっきりと見きわめる心のはたらきを「心眼」といいます。もちろん物事を見るはたらきは、目がします。でも心がしっかりしていないと、目は清浄(しょうじょう)なはたらきをすることができなくなります。目が見えるばっかりに、かえっていろんな迷いを起こしてしまうということにもなりかねません。だから物事を知ろうとする時には「心の眼で見よ」と仏さまは説(と)かれるのです。
 まず物事は平静な心で見ることです。そうすれば、正しい判断ができます。そして学ぶ心で見れば、どんな物事からも、なにかを教えられ、素直な心で見れば、生かされている生命(いのち)の尊さに感動します。
 見識(けんしき)とは、よくいったもので、見るとは識(し)ることの大本(おおもと)です。だからなんでも、よく見なければなりません。  私たちは生まれた時からまわりの物の見よう見まねで大きくなって来ました。学ぶという言葉のもとは「まねぶ」だといわれます。
 どうせ真似(まね)るなら、よりよく真似なければなりません。心が曲がっていては、間違った真似をしてしまいます。
 私たちが正しく生きようと心がける時、まわりの物は、みな先生として目に映るのです。
(寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.014 恵みの雨

 「鬱」という字は、「ウツ」と読みます。読むのも、書くのも大変な字です。でも、この字でできた言葉を、私たちは、意外と使っているのです。たとえば、ストレスの多い現代社会では、人々の不平不満は、「うっ積」しています。そして、そんな状態が長く続くと、心は「憂うつ」になってしまいます。まして、どんよりした梅雨空と眺めると、気分は、「うっ陶しく」なるんじゃありませんか。
 でも、そんな時、心をなごませてくれるのは、紫陽花の花ではないでしょうか。誰もが、いやがる雨の中で、いきいきしているその姿を見ると、水ってやっぱり大切なんだなと考え直させられます。
 かつて私たちの国、日本には、瑞穂国(みずほのくに)という美しい言葉がありました。瑞穂とは、みずみずしい稲の穂で色どられた平和な世界というのが、古代の人々がイメージした私たちの国ではなかったでしょうか。
 休耕田が増え、荒れ果てた農地が多くなった風景を見るにつけ、渇ききった現代人の心を思わずにはおれません。
 「鬱」には、こんもりと生い茂るという意味もあります。雨を恵みと受けとめる心のゆとりを取り戻したいものですね。
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No.013 いのちの可能性

 「∞」、これは数学の記号で無限大を意味します。無限大とは、限りなく大きいということ。仏さまの慈悲の大きさを表すとすれば、この記号以外にないかもしれません。これに対して無限小という言葉があります。もちろん反対の限りなく小さいという意味です。でも、どんなに小さくても、目に見えなくても、ゼロ、すなわち、ないという意味ではありません。
 無限小は、無限大になる可能性を秘めた存在なのです。たとえば、どこから飛んで来たか分からないタンポポの種でさえ、風に乗り、土に落ち、縁さえあれば、春の訪れと共に芽を出し、花を咲かせます。他の花に較べ、それほど美しくはないけれど、タンポポは全世界に分布しているのだそうです。素晴らしいとは思いませんか。
 仏さまの教えも、これに似ています。お釈迦さまがインドの大地で咲かせた花が種となり、風に乗り、シルクロードを旅して、中国から朝鮮、そして私たちの国日本に根を下したのです。
 人は、その「∞」のいのちの世界に気づいていないのかもしれません。でも、仏さまの教えは知らぬ間に、あなたの心に、ちゃんと種まかれています。大慈大悲という春の光の下(もと)で。 (寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.012 優しさと厳しさ

 子育てに愛情は不可欠です。ところが、あり過ぎても困るのが、この愛情。昔から「乳母日傘(おんばひがさ)」の喩(たと)えもあるように、後生大事に育ててばかりいては、子供は出来そこないます。いわば、それは愛情の逆作用。
 発句経には、「愛より愁(うれ)いは生(しょう)じ、愛より怖(おそ)れは生(しょう)ず」との警句が発せられています。人は、愛する故に悩み、苦しむ生き物なのでしょうか。
 お経には、「有情」(うじょう)という言葉も出て来ます。これは、「衆生(しゅじょう)」と同じく、生きとし生けるものを意味しますが、仏さまは、生きてこの世にあるものは、すべて感情を持つものだとお考えなのです。
 だからこそ、私たちが愛や情に溺(おぼ)れ、身を滅ぼさないようにと真理を諭(さと)されます。それは、仏さまにとって、私たち衆生が、みんな我が子のように思えるから。時として厳しく戒められるのは、多くの失敗をご覧になっているからです。
 それならば、私たちも子育てや人づくりの中に仏さまの教えをいただかねばなりません。
 子供は、いつの日か一人立ちせねばならないもの。仏さまの願いも親の願いも、それより外(ほか)ないのですから。 (寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.011 光る汗、輝く涙

 人生をふり返った時、笑顔で思い出せるものは、いったいなんでしょう。
 苦あれば楽ありという人生、それは「あの時、よく耐(た)えたな」といえる、苦しみを乗り越えた体験ではないでしょうか。人間、おかしなもので、投げ出したくなったあの日のことが、今となっては懐(なつ)かしいと思えるようになるものです。それは心の中に、自分は体当たりで頑張ったという満足感があるからでしょう。
 お経の中には、「不自惜身命」(ふじしゃくしんみょう)という言葉があります。「真理を求めるためには、自ら身も命をも惜(お)しまない」という意味です。
 何事にも大切なのは意気込みです。その意気込みがあれば、苦は苦でなくなります。積極的に生きてこそ道は開けます。
 御身大事(おんみだいじ)という消極的な生き方は、かえって苦に押し潰(つぶ)されてしまいます。
 体は動かすために、心は感動するためにあるのです。精いっぱい働いて流す汗は光ります。思わずこぼれた涙は、いつの日か輝くものです。
 あなたの努力を、み仏さまは、いつもご覧になっています。 (寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.010 分かちあう人生

 一人で歩めば心細い道も、連れがあれば楽しくなるもの。人生も同じで、夫婦はお互いを「連れ合い」と呼び、共に生きることを「連れ添う」といいます。
 一人では耐えがたかったことも、分かち合えば、苦は半減、楽は倍増。共に歩んだ人生を「お前がいたから」「あなたのお陰で」と語り合えるのが夫婦というものでしょう。
 英語で、夫が妻のことをベターハーフ(よりよい半分)というのも、そんな気持ちのあらわれなのかもしれません。
 でも、最近では、分かちあうという意味が変わってきました。たとえ夫婦でも、その関係は五分と五分、権利も責任も平等に分けあうという考え方がそれです。それでは二人は、よりよい半分どころか、真二つに割れた仲、楽しい時はとにかく、苦しい時は、ハイそれまでよという夫婦になりかねません。たとえ体は別々でも心を一つに合わせるのが、分かちあう本来の意味ではないでしょうか。
 ところで、もし、「今、自分はひとりぼっちだ」と思っているあなた。たとえ一人ぼっちだとしても心配しないでください。仏さまは、必ずあなたを見守ってくださっています。苦楽を悟ってこそ人生、悟苦楽(ごくらく)とも読めるのですから。(寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.009 善知識

 人生は人と人との出会いです。まったくの知らない者同士が、ふとしたキッカケから一生忘れられないような友だちになるのはよくあることです。そうかと思えばちょっとしたことで傷(きず)つけ合って別れてしまうこともあります。
 でも、一人ぼっちでは生きられない私たちは、いつも心のどこかで本当に慰(なぐさ)め合い、励(はげ)まし合える友だちを求めているものです。
 どんなに人間嫌いの人だって、何かを友にして、生きているものです。〈共(とも)〉に人生を、分(わ)かちあってくれるもの、それが〈友(とも)〉という言葉の始まりではないでしょうか。
 しかし、友も友によりけりです。昔から「朱(しゅ)に交まじわれば赤くなる」という言葉があるように、善(よ)くも悪(わる)くも影響し合うのが友です。お互い信頼し成長し合うような友だちを選んでください。
 仏教では、自分が悟(さと)りを開く縁を作ってくれる人のことを「善知識(ぜ んちしき)」と呼びます。友は、お互い善知識でなければなりません。
「朋(とも)有りて遠方より来る。亦悦(またよろこ)ばしからずや」(論語)とい うような友だちを、私たちは持ちたいものです。(寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.008 泥中の蓮華

 悩みや苦労は、誰もが抱えています。でも誰も望んで苦悩する人はいないでしょう。
 たしかに今の世間は、泥沼(どろぬま)のようなもの、悪のメタンガスも充満しています。「世の中は変わってしまった」と嘆く老人もいれば、「人間ってそんなものさ」とうそぶく若者もいます。
 しかし、迷ってはいけません。そんな泥沼の中にも、蓮華は清らかな花を咲かせます。
 世間から逃げないで、しっかりと根をおろし、強く生きたいものです。
 「微笑みの花は、挫折(ざせつ)の泥沼に咲き、歓喜の果実は、精進(しょうじん) の田に稔(みの)る」そう信じて、あなたが一生懸命にがんばって生きて行けば、その苦労こそが、本当にありがたい体験だったと思える時が来ることでしょう。
 蓮華の花。それは、私たちの生き方のシンボルだと言えるでしょう。(寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.007 行雲流水

 一所(ひとところ)にとどまらずに各地を行脚(あんぎゃ)するお坊さんのことを〈雲水(うんすい)〉といいます。この呼び名の本(もと)になるのは、〈行雲流水(こううんりゅうすい)〉という言葉、空に浮かんで行く雲と野を流れる水という。いかにものんびりした風景をあらわす言葉です。
 転じて、少しの執着(しゅうちゃく)もなく、淡々として成り行きに身をまかせる生き方を意味するとあります。
 旅に出かけた雲水は、自然と語り、自然に学び、“人”のあるべきようを我が身に問うのでしょう。
 どんなにしがみついても、離したくないと思っても、すべてのものは移(うつ)ろいゆくと説く仏教の哲理。それを肌身に教えてくれるのは、大自然です。
 都会の雑踏の中にばかり居ては、ガツガツした人間になってしまいます。たまには野に出かけ、空を仰ぎ心を解き放つことが必要です。
 お釈迦さまは、常に静かな処(ところ)を求め、深い瞑想(めいそう)の中から、 人生の悩みに対する答えを導き出されました。
 欲にとらわれない眼でなければ、真実の姿は映りません。私(わたくし)なき心でなければ、真理は耳に届きません。
 〈諸法実相(しょほうじっそう)〉とは、あるがままを自然に学べという仏の私た ちへの語りかけなのです。(寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.006 心に咲く花

 百花撩乱(ひゃっかりょうらん)、春は花が主役の季節。出番を待っていたかのように咲き乱れる花々に彩(いろど)られ、自然は躍動し、生命(いのち)の歌を唄います。
 今とばかりに美を競い合う多くの花々。それは、青春を謳歌する若者の姿のようでもあります。
でも「花の生命(いのち)は短くて」と喩(たと)えられるのが、私たちの人生。ただ華やかさを求めるだけでは、悔いが残るばかりです。
 だからこの季節、名もない草花に目を転じてみるのも、また楽しいものです。目を奪われるような豪華な花より、人知れず咲いている野の花に、心安らぐ美しさを発見することがあります。
 かつて俳聖・芭蕉は、その旅の道すがら〈山路来て、なにやらゆかし、すみれ草〉の一句を詠(よ)んだとか。ひっそりと、しかし精いっぱいに咲いている一輪の花に、芭蕉は本当の美しさを感じ、生命(いのち)の尊さを悟さとったのかもしれません。
 見てくればかりに気を取られ、外面を飾るだけでは、鼻につく人間になってしまいます。短い人生だからこそ、精いっぱいに生き、心に咲く花を育てなければなりません。そうすれば、人生、一生青春です。 (寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.005 心の蔵

 心は不思議な生き物です。姿もなければ、形もありません。まさに「意(こころ)は微にして見がたし」(法句経)というべき存在です。
 ところが、見えなくても、私たちの在るところ、どこにでも付いてまわるのが、この心。「欲に随いて行く」と経文にあるがごとく、いろんなトラブルを引き起こします。
 だからでしょうか、人は時として「無心になれ」といいます。でも、それは、「心を失え」ということではありません。欲を離れて、心の在るべき姿を見つめてみよということです。
 仏教では、心の奥にある世界を“アーラヤ識”といいます。アーラヤとは、「蔵」という意味のインドの言葉。その心の蔵に光をあてられたのが、お釈迦さまです。
 だから、迷いのままの心の状態を「無明の世界」といいます。光に照らし出された蔵の中には、いったい何があったのでしょう。我楽多(がらくた)もいっぱいありました。でも素晴らしいものがあったのです。それは、他を生かす歓び。
 お釈迦さまはこれを“仏性”と名づけられました。そして誰にでも、それは備わっていると説かれたのです。
 あなたも一度、心の蔵を覗(のぞ)いて見てはいかがでしょうか。 (寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.004 あるがまま

 春の新芽が、夏には青葉と茂り、秋が深まると共に木々は紅葉します。そして木枯らし吹きすさぶ冬の訪れ。日本の四季は、仏の説く無常観-すべてのものは、うつろいゆく、一時(ひととき)としてとどまることなしという教え-のそのまま を自然の中に映し出してくれます。
 どんなに抗(あらが)おうと、ついには、この自然に還って往(ゆ) く私達の命(いのち)。そんな感慨を持った時、人生をあるがままに生きた良寛さんの〈裏をみせ、表をみせて、散るモミジ〉という辞世の句に、ふと共感を憶えます。
 いずれは去ると分かってはいても、今この時の生命にしがみつきたくなる私達。寒空に散り残った柿の葉一枚にも、生への執着を感じるのが人の情。
 そんな凡夫の心の裏表を知り尽くしているのが仏さま。
 悩みは悩みのままに、悲しみは悲しみのままに、そっと包み込んで私達を安らぎの世界へ導いてくださいます。
 そんな仏さまの慈悲を見つけられたとしたら、あなたの人生の味わい方も、きっと深まることでしょう。 (寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.003 文殊(もんじゅ)の知恵

 人間、一人でできることなんてたかが知れています。それでは、どうすればいいんでしょう。
「三人寄(よ)れば、文殊(もんじゅ)の知恵」という諺(ことわざ)があるのはご承知(しょうち)でしょう。文殊というのは、仏さまのお側(そば)にお仕えしている獅子(しし)に乗った菩薩(ぼさつ)さま、知恵をつかさどる方だといわれています。もちろん、私たち凡夫(ぼんぷ)に、そんな偉い菩薩さまにかなう知恵があるはずはありません。それでも、「三人寄れば」と但(ただ)し書きのある点に注目しましょう。
 たしかに一人ひとりの知恵はしれたものでしょう。でも、みんなが、それぞれの考えを出しあえば、決して菩薩さまにも負けないぞとこの諺は言いたいのではないでしょうか。
 かつて戦国武将の毛利元就(もとなり)は、三人の息子たちに矢を与え、一本ずつなら折れやすいが、三本まとまれば容易に折れるものではないと教え、兄弟仲良生きるよう諭(さと)したと言います。現代に生きる私たちにも、この知恵は必要ではないでしょうか。
 百獣の王ライオン<獅子>を倒(たお)すのに、無数のアリが団結したという西洋の童話もあります。みんなが我を離れ、全体の事を考えるようになったら、文殊さまだってマイッタというかもしれませんよ。 (寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.002 母の恩

 親が子を大切に育てることを〈手塩(てしお)にかける〉といいます。この手塩、元来は食膳に塩を盛った小皿があったことに由来するそうです。その塩を自分の手でつまんで、めいめいが好みの味つけをした。そこから転じて、子育てに気 を配ることの意味にもなったといいます。だから辛すぎても、甘すぎてもいけないのが手塩のコツ。
 いつだったかテレビで「お母さんが、おにぎりを作る時、手にお塩をかけて握るでしょう。子供にお腹いっぱい食べて欲しいと願いながら握るおにぎり。それこそ教育の原点です」という話を聞きました。どんなご馳走よりも母親の愛情のこもったおにぎりは、子供にとって生涯忘れられないもの。ちょっぴり効いた塩味は、叱られた時にこぼした涙の思い出にも繋つながるかもしれません。
 「お袋には、苦労をかけたなあ」そう思ったら、今度はこちらがお返しをする番。たまには、あなたの逞しいその手で「ありがとう」とお母さんの手を握り返してあげて下さい。親は、それだけでも、育てた甲斐があったと喜んでくれるものなのです。 (寺の友社 教宣編集室 謹製)

No.001 貧者の一灯

 真心の尊さを説くのに〈貧者の一灯、長者の万灯〉という諺(ことわざ)がよく使われます。この言葉の由来は、仏さまに捧げられた一つの小さな灯明の物語に始まります。
 ある日、マガダの国でお釈迦さまの法座が開かれた時のことです。遇(あ) いがたき仏との縁を歓(よろこ)んだ一人の女性が、何かご供養したいと願いました。ところが貧しい彼女には、一文(いちもん) のお金もありません。そこで自らの髪を切り、それを売ったお金で、わずかばかりの油を求め、法座を照らす明(あ) かりとしたのです。仏の御前(みまえ)には、多くの人々に供えられた数えきれないほどの灯明が並んでいます。
 それらのどれよりも、みすぼらしく小さな彼女の灯明。 しかしその時、にわかに巻き起こった風が次(つぎ)々に灯明を吹き消していったのです。あたり一面が真っ暗闇になり、人々は怖れおののきました。その中にあって、たった一つ、この貧女(ひんにょ)の捧げた灯明だけが、いつまでも光り輝いていたというのです。
 「供養とはけっして世間体などを飾って、誇示するものではない。たとえささやかでも自分の真心をもってするのがいちばん尊いのだ」という仏さまの声が聞こえてくる気がしませんか。 (寺の友社 教宣編集室 謹製)

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