蓮の実通信
No.023 「説教はライブで」
スイカといえば、夏の果物でした。ところが近頃では五月頃から出回っています。いえ、真冬でも、果物屋さんの店頭に並んでいます。
子供の頃は井戸で冷したスイカを、セミの鳴き声を聞きながら、かぶりついたことを思い出しながら、「世の中、変わりましたね」と話しました。もちろん、今でも夏にスイカを食べない訳ではありません。でも、スイカに対する感激が、昔と全然ちがうのです。
いつでも有るということは、私たちから「待つ」という心を失わせてしまいました。待つということは、つらいことです。しかし、一面では楽しみでもあるということも知らねばなりません。
「待つ」という心の働きによって、私たちの胸には、夢と希望がふくらむのです。そして、待った後に出会ったという感激が、私たちの人生を豊かにさえするのです。
先日、お説教に出かけたお寺さんで、一人のお爺さんが、私の話を録音していました。
「近頃は、こんな便利なものができたから、ありがたいですね」そういうお爺さんは「このお話を、家に帰って家族に聞かせます」と言いました。熱心な人だなと感心していると「でも、こんな道具ができたおかげで、一緒にお寺に行こうと誘っても、後でテープを聞くから、わざわざお寺に行かなくてもいいと断られた」と、ぼやきました。
「テープなら、自分の家で寝ころんでも聞けるし、足もしびれませんからね」この話を聞きながら、便利というのは、そんなマイナスの面もあるのかと思ったのです。
ところが、その時、横にいた青年が「お説教は、やっぱりライブでなくちゃあ」と言ったのです。お爺さんがびっくりして「ライブってなんですか」と尋ねました。「生演奏のことをライブって言うんだよ。いくらいい機械でも、機械は機械、心までは伝わってこないからね。これからはなんといっても生の時代だよ。ビールも生だし、お金も現生が最高だからね」と笑わせます。
これを聞いた私は、いいことを言うなと思いました。これからは、手作りこそ求められる時代だと思うからです。
一年中出回っている野菜や果物に飽いているのは、そこには新鮮さという実感がないからでしょう。自然と共に生きる気持ちがなければ、私たちは生き生きとした心まで失ってしまうような、そんな気がしてなりません。 (T)
子供の頃は井戸で冷したスイカを、セミの鳴き声を聞きながら、かぶりついたことを思い出しながら、「世の中、変わりましたね」と話しました。もちろん、今でも夏にスイカを食べない訳ではありません。でも、スイカに対する感激が、昔と全然ちがうのです。
いつでも有るということは、私たちから「待つ」という心を失わせてしまいました。待つということは、つらいことです。しかし、一面では楽しみでもあるということも知らねばなりません。
「待つ」という心の働きによって、私たちの胸には、夢と希望がふくらむのです。そして、待った後に出会ったという感激が、私たちの人生を豊かにさえするのです。
先日、お説教に出かけたお寺さんで、一人のお爺さんが、私の話を録音していました。
「近頃は、こんな便利なものができたから、ありがたいですね」そういうお爺さんは「このお話を、家に帰って家族に聞かせます」と言いました。熱心な人だなと感心していると「でも、こんな道具ができたおかげで、一緒にお寺に行こうと誘っても、後でテープを聞くから、わざわざお寺に行かなくてもいいと断られた」と、ぼやきました。
「テープなら、自分の家で寝ころんでも聞けるし、足もしびれませんからね」この話を聞きながら、便利というのは、そんなマイナスの面もあるのかと思ったのです。
ところが、その時、横にいた青年が「お説教は、やっぱりライブでなくちゃあ」と言ったのです。お爺さんがびっくりして「ライブってなんですか」と尋ねました。「生演奏のことをライブって言うんだよ。いくらいい機械でも、機械は機械、心までは伝わってこないからね。これからはなんといっても生の時代だよ。ビールも生だし、お金も現生が最高だからね」と笑わせます。
これを聞いた私は、いいことを言うなと思いました。これからは、手作りこそ求められる時代だと思うからです。
一年中出回っている野菜や果物に飽いているのは、そこには新鮮さという実感がないからでしょう。自然と共に生きる気持ちがなければ、私たちは生き生きとした心まで失ってしまうような、そんな気がしてなりません。 (T)
