蓮の実通信

No.022 「報復の虚しさ」

 「まこと怨みごころは、いかなるすべを持つとも、怨みを懐くその日まで、ひとの世には止みがたし。うらみなさによりてのみ、うらみはついに消ゆるべし。こは易らざる真理なり」(友松円諦 訳)

 これは法句経というお経の中にある言葉です。私たちにとって、怨みほどやっかいなものはありません。恨むまいと思っても、心の中から、なかなか消えてくれないのが怨みです。
 戦争が終わって五十年以上も経った今も、朝鮮人慰安婦問題をはじめ、いろんな心の傷痕が解決されないままに残っています。その人たちの味わわされた苦悩、舐めさせられた屈辱を考えれば、何ひとつ許せないのが当然だと思います。
 「この怨みを晴らさなければ、死んでも死にきれない」という気持ちになるのも、無理からぬことでしょう。でも、願い叶って、その目的を遂げてしまった時、人々の心には満足感は、おとずれるのでしょうか。

 ここに、こんな記録があります。
 一九六〇年五月、ナチスの親衛隊長だったアイヒマンが、彼を追い求めたイスラエルの謀報機関によって逮捕された時のことです。彼は、あの第二次世界大戦の時、ユダヤの人々を迫害し、ありとあらゆる暴虐を加えた人間です。ユダヤの人々のナチスに対する怨みは、言葉には尽くせないものがありました。そこで作家でもある某ルポライターが、謀報機関の人に、「アイヒマンを捕まえた時どんな気持ちでしたか」と尋ねたのです。すると、こんな答えが返ってきました。「驚きと期待はずれが入り混じった気持ちだね。六百万人もの同胞を殺した男だ。獣のような男を想像していたよ。でも、目の前にいるのは、ひ弱で、ただビクビクしている男に過ぎなかった。捕まえた時以外、だれも彼には指一本触れようとしないのに、彼は今にも殺されるのではないかと怯えきっていた。食事を与えれば毒殺されるのではないかと震え、ヒゲを剃ってやろうとすれば、ノドをかき切られるのではないかと震え、散歩させてやろうとすれば、外で銃殺されると怯えるんだ。こんな臆病者の、自尊心のかけらもないような男に、同胞が殺されたのかと思うと、怨むというよりも、情けない気持ちでいっぱいになったよ」

 この記事を読んで、私は〈報復〉という観念・行為の虚しさを感じました。「うらみなさによりて、うらみはついに消ゆるべし。こは易らざる真理なり」という、お釈迦さまの声が、二千年という時代を超えて、今現代の世界に聞こえて来る気がしました。自分の論理だけを主張した、報復の繰り返しなどによって、決して、世界に平和は、 おとずれません。  (J・N)

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