交流の広場「微笑苑」

No.009 <お経の貯金>

  「布施なき経を読め」という言葉がある。
 坊さんがお経を読めば、檀信徒はお布施を出す。そのお布施で我々坊さんは生 活もし、家族も養っているのだから、お布施はありがたい収入源でもある。しかしそれを、いわゆる労働に対する報酬とのみ考えるならば、我々は大きな 落とし穴に落ち込んでしまうだろう。
 布施は「ほどこし」とも言い、「自分が他 に対してできる事をさせてもらう歓び」を意味する、仏教で非常に大切な 実践徳 目である。それがいつの間にか、坊さんの「ギャラ」を意味する言葉に堕してしまった。まことに恥ずべき事だと言えよう。
 冒頭に挙げた言葉は、そんな坊さんの反省から生まれて来た言葉ではないだろ うか。私自身、先輩から「お経の貯金をしておかないと、罪障にやられるぞ」と言われた事が何度かある。罪障とは、自分が犯す罪や、他からこうむる障害の原因を言うのだろうか。「他人から頼まれて読むお経はあくまで他人のため、自分の徳にはなってないと肝に銘じておけ」
 今となってはその言葉が身に沁みるが、当時は頭の上を素通りしていたなぁ。檀家まわりをして、日に何遍も読んでいるのに、「それ以上お経が読めるか。」そんな気持でいた。だから師父が朝のお勤めをしていても「親爺がやってくれているから、それでいい」と自分は朝寝をし、ずぼらを決め込んでいた。それが二十数年続いていたのだから、私の罪障は溜まりに溜まっていたかもしれない。
 晴れて師父から、住職の座を譲られた時、さすがに私も「今日からは、朝のお勤 めをするぞ」と決意した。しかし、それは何日続いただろうか。原稿書きで夜遅くなったと言ってはサボリ、会議で疲れたと言い訳しては、女房に相手をさせて、その場凌ぎをする日々もあった。その結果 とは言いたくない。しかし、私が交通事故で病院に運ばれたと聞いた時、女房は思ったそうだ。「住職なのに、朝のお勤めをちゃんとしないからだ」と。
 実は私も、入院中、そんなざんげの気持を起こしていたのである。「そんな事、恥ずかしくて檀家の人には言えんだろう」二人っきりになった時、私たち夫婦は語り合った。「でも助かったのは、やっぱり仏さまのお陰よね。いくら偉そうな事を書いても、自分が実行できなけりゃ誰もついて来ないのよ」 女房が、「布施なき経」の真意を知るはずはない。しかし、亭主のだらしない態度に、いつの日か、仏さまの戒めがあるとは予感していたのかもしれない。
 布施とは、報酬がなくても自分のする事に歓びを感じる事だと書いた。檀信徒 の財施に対し、坊さんには法施という言葉が用意されている。
 法施とは、早い話が、仏の教えを人々に伝えることである。その行いなくしては、我々僧侶は、坊さんの資格を失なってしまうだろう。
 まず、朝のお勤めは、ちゃんとしようごく当たり前の事なんだが、今の私には、 それしか言えないのである。
(J)

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