新・仏教説話 第十一話-第二十話

第二十話 足を洗った水

新・仏教説話 第20話 足を洗った水

やくざな生活に見切りをつけて、まともな生活をすることを「足を洗う」と言いますね。これは、身に染みついた汚れやホコリを払って、人生をやり直すということから来ているのでしょう。

ところで、お経の中に、「足を洗った水は、飲み水にはならない」という言葉が出て来ます。

ある日のこと、お釈迦さまをたずねて、一人の男の人が竹林精舎にやって来ました。最初に会ったのは、お釈迦さまの一人息子のラーフラです。頭を丸めていたとはいうものの、まだ十二、三歳の腕白盛り。「お釈迦さまは、今どちらにいらっしゃいますか」との問いに、「この道をずっと登っていった霊鷲山です」と答えました。

霊鷲山というのは、お釈迦さまが、お弟子や信者の人々を集めて、お説教をなさるお山です。男の人は、ラーフラにお礼をいうと霊鷲山へと向かいました。その後ろ姿を見送りながら、ラーフラは、「ウフフ・・・」と笑いました。

その日、お釈迦さまは、霊鷲山ではなく、町に托鉢にお出かけだったのです。「山に登ったら、誰もいないのでびっくりするだろうな」そんなラーフラのいたずらを知ってか、知らずか、ちょうどその時、お釈迦さま一向が托鉢からお戻りになったのです。ラーフラは、急いで水桶をお持ちしました。その水で足を洗われたお釈迦さまは、実に気持ち良さそうです。ラーフラは、そんなお釈迦さまのお顔を見るのが大好きでした。

ところがその後、お釈迦さまは、ちょっと厳しいお顔になって、こんな言葉を口になさったのです。「ラーフラよ、そなたは、私の足を洗った水を飲みたいと思うだろうか」ラーフラはびっくりして「えっ」と聞き返しました。すると「おそらくはそうは思わないであろう。それなのにそなたは、悪意に汚れた言葉を人に飲ませてしまった」とおっしゃいました。お釈迦さまは、ラーフラのした行いをすべてお見通しだったのです。

ラーフラは、大声をあげて泣き出しました。「ごめんなさい。ごめんなさい!」といって泣いたのです。その大粒の涙が大地に落ち、土に吸い込まれて行きました。お釈迦さまは、その涙の落ちた所に、足を洗った水を流されました。「たとえ汚れた水でも、大地に戻れば恵みの水となるように、そなたの過ちも悔いの涙に清められ、心の糧となるであろう」こう諭されたラーフラは、それ以後、決して他人をからかったり、ウソを言ったりしなかったそうです。

足を洗うとは〝心を洗う〞ということなのですね。

(J・N)

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