新・仏教説話 第十一話-第二十話

第十七話 やさしいコンダニャ

新・仏教説話 第17話 やさしいコンダニャ

あなたは、なにかすばらしいことをおもいついたとき、いちばんなかのいい友だちに、それを話したくなりませんか。

お悟りをひらかれたときのお釈迦さまが、そうだと言うとすこししつれいですが、天の神さまから、人びとのために、あなたが悟った真理を、おはなししてくださいとたのまれたお釈迦さまは、それならだれに一番に、その真理をおはなししようかと、おかんがえになったのです。そして、むかしいっしょに修行をした、五人のなかまたちに、おはなししようとおかんがえになりました。かれらがいたのは、サルナートというところ、その後、“初転法輪(しょてんぽうりん)”といって、お釈迦さまがはじめて教えをとかれたばしょとして、ゆうめいになりました。

そのサルナートまで、はるばるあるいてこられたお釈迦さまを、五人のなかまたちは、しらんふりしました。それはかれらが、お釈迦さまのことを、うらぎりものだとおもっていたからです。でも、そんなかれらの心の中をみぬけないお釈迦さまではありません。しずかに、サルナートの森の中にはいられたお釈迦さまは、おっしゃいました。「しばし修行をやめて、わたしの話をきいてもらいたい。」そのこえがあまりにも、すみきっていたので、五人のなかまたちは、おもわずお釈迦さまのところによってきました。

それは、ながいあいだつづけていた修行に、かれら自身も、ぎもんをもっていたからです。「あなたたちは、ただじぶんがすくわれたいとおもって、修行をしているのですか」そうかたるお釈迦さまのことばに、みんなドキンとしました。「わたしも、さいしょはそうでした。だけど、わたしはいま、じぶんにこだわってしまうことが、まちがっているとわかったのです。じぶんというにんげんは、“縁”によって生かされているのです。“縁”とは、“これがあれば、あれがある”ということです。」これをきいて、

「わかりました。“縁”とは、すべてを生かすものなのですね。たとえば、わたしの心にはなしかけてくださる、あなたのやさしさのように」とこたえた男がいました。この男はコンダンニャという人です。

そのこたえに、ニッコリほほえまれたお釈迦さまは、「そのとおり、よくわかってくれましたね、コンダニャ」とおっしゃいました。かれは、お釈迦さまのおでしさんのなかで、さいしょにお悟りをひらいた人だといわれています。でも、はやくお釈迦さまのグループから、はなれてしまった人だともつたえられているのです。それはかれがお釈迦さまよりも、としうえで、舎利弗(しゃりほつ)や目連(もくれん)という若いおでしさんさんたちがあらわれたとき、そのかつやくをこうはいにゆずろうとしたためだともいわれています。

湖のちかくで十二年間、ひとりでしずかにくらしたコンダンニャは、お釈迦さまにおわかれをつげると、だれにも知られずになくなったそうです。ただ、森の象たちだけが、コンダンニャのこころがわかっているかのように、かれのさいごをみまもっていたといいつたえられています。

(J・N)

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