新・仏教説話 第一話-第十話

第六話 ケシの実

新・仏教説話 第6話 ケシの実

仏教は、よく〝あきらめの宗教〞であると言われます。確かにその通りで、お釈迦さまは、しばしば、人々に諦めるようにお諭しになります。

たとえば、「世の中は無常である」とか、「人生は苦である」とか、通り一遍に聞いたのでは、いやに湿っぽい、陰気な教えのようにさえ受け止められがちです。

しかし、お釈迦さまの真意は、私たちをそんな憂うつな気持にするところにあるのではありません。世の中が無常であるというのは、「情が無い」と言う意味での無情ではありません。

この世の中に存在するもので、何一つ変化しないものは無い。すべてのものは、原因と結果と言う、いわば宇宙の法則によって変化している。その真理を悟らない者は迷いを生じ、それが苦しみの種ともなる。宇宙に存在するものすべてが変化する以上、人もまた、変化の中に生きなければならない。簡単に言うならば、こうお釈迦さまは説かれるのです。

昔、インドに、キサー・ゴータミという女の人が居ました。彼女は愛する我が子を、突然病気で失ってしまい、その遺骸をかかえて途方にくれていました。「世尊よ、あなたの偉大なお力で、この子を生き返らせてくださいませ。悟りを開いたあなたには、そのお力があると思われます。」切なるゴータミの願いに、「それではゴータミよ、そなたは町に出掛け、小さなケシの実を一つ貰って来るがよい。さすれば、その子の生命は甦るであろう。ただし、そのケシの実は、死人を今だかつて一人も出したことのない家のものでなければならない」そうお釈迦さまに言われたゴータミは、我が子のため、町中の家をケシの実を求めて尋ね歩きました。でも、ケシの実はあっても、死人を一人も出したことの無い家は一軒もなかったのでした。

「ゴータミよ、不幸なのはそなた一人ではない。生まれて来た者は、誰一人死をまぬがれることはできない。また、過ぎた過去を呼び戻すことは、悟りを得た私にしてもできることではないのだ。今、そなたに必要なのは、その過去にとらわれる心を捨て、明日に向かって立ち上がることなのだよ」

「あ・ き・ ら・ め・ る・ 」という言葉のルーツは「明らかにみる」にあると言います。

物事を正しく見きわめ、あきらめるべきことはあきらめ、求めるべきことは求めていく、これこそ私たちが「生きていて良かった、この世に生まれ合わせた甲斐があった」と、死ぬ時が来ても思うことができる王道の人生だと、お釈迦さまは教えてくださるのです。

(J・N)

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