お釈迦さまが、お弟子の阿難を連れて、山道を歩いていたときのことです。
雨で崩れた崖の中で、キラキラ輝くものがあります。それは、誰かが、こっそり埋めた黄金だったのです。
これを目にしたお釈迦さまは、「毒蛇だ、阿難」と言っただけで、振り向きもせずに通り過ぎていきました。ところが、たまたまその近くにいた貧しい男が、お釈迦さまにこの言葉をふと耳にして、こわいもの見たさにその場所に近づいて行ったのです。こわごわと覗き込んだ彼は、「あ!」と大声をあげました。
それは恐怖からではなく、まさに喜びの声でした。「こういう毒蛇なら、たとえ噛みつかれたってかまやしない、持って帰って大切にしてやろう」
やがて、その男は拾ってきた黄金を元手に、商売を始めたのです。店も立派なものを作り、暮らしも派手になってきました。とこらが、それを見ている近所の人たちが黙っているはずがありません。「あいつがあんなに金を持っているのはおかしい、泥棒でもしたに決まっている」と、役人へ訴え出たのです。さっそく男は呼び出され、お金の出所をきびしく追求されました。
しかし男は「ありのままを話せば、そっくり取り上げられてしまうに違いない。泥棒呼ばわりされても、どんなに責められても、せっかく手に入れた金を放してたまるものか」と、どうしても口を割りません。
その結果、なんと死刑を宣告され、荒縄でがんじがらめに縛られて、刑場へ引き立てられることになりました。荒縄は身体に食いこみ激痛が走ります。しかしそれ以上に、人々の非難と軽蔑の眼指しは男の心に激しく突き刺さってきます。
降って湧いてきたような大金を手にすれば、魔が差して欲が出るのも人情です。こんな出来事に出会わなければ、この男も、ごく普通の人間として一生を送れたはずです。
昨今、マスコミを賑わせている政財官の利権争いなど、この物語の男と同じく、毒蛇に魅入られた哀れな人たちの姿ではないでしょうか。
たとえ貧しくても、心豊に生きる道を見つけ出すのが、幸せをつかむ最善の方法だと言えるでしょう。