雲水と言えば、行方を定めず行脚する修行僧のこと。
これは「行雲流水」という言葉に由来します。
人は、空を行く雲と流れる水のように、自然に身を任せた生き方に僧のあるべき姿を求めたのでしょうか。
こんな時、ふと目に浮かぶのは、青空にポッカリ浮かぶ白い雲ですよね。
でも、仏教には〈雲心〉という言葉もあるんです。
これは逆に、雨雲に覆われたような鬱陶しい、心の晴れない状態です。
思わず、「来年の今月今夜、再来年の今月今日のこの日を僕の涙で曇らしてみせる」といった『金色夜叉』の貫一の恨み節を思い出しました。
こんな雲は、迷い雲。
それを見事に払いのけたのは維新の先駆者、吉田松陰でしょう。
彼は、「事態が悪化し、豪雨の前の空のように陰々として暗くなればなるほど、その密雲の上の固有の蒼天(青空)を思うらしい。
むろん、誰の目にも見えないのだが、松陰の目には網膜が青く染まるほどのあざやかさで、(蒼天を)思うようであった」と司馬遼太郎は語っています。
先行き不透明と言われるこの時代ですが、