伝道シリーズ第1弾 No.021-030

No.021 慈悲

伝道シリーズ第1弾 No.021 慈悲

私たちのまわりにはいろいろな愛があります。

異性を愛する愛、子を思う愛、親を慕う愛、友情で結ばれる愛、数えあげればきりがないほど、この世の中には、愛がさまざまの姿をもって存在しています。

人は、愛ゆえに喜び、悲しみ、助け合い、憎しみ合います。
考えてみれば、愛ほど魅力的なものはないのに、また、これほど始末のわるいものはありません。

慈悲とは、そんな人間の愛を越えた仏さまの愛をあらわす言葉です。

私たちの愛が、特定の人にそそがれるのに対し、仏さまの愛は無限の広がりをもっています。
私たちが愛の裏に憎しみを隠しもっているのに対し、仏さまは絶対の愛をお持ちです。

私たち生きとし生けるものすべてを仏さまと同じ心の世界へ入らしめようと、ある時は励まし、ある時はいたわり、やもすればヤケッパチになりがちな私たちを見守り導いてくださっています。

そんな仏さまの愛は、私たちの心の奥底にもあるのです。
ほんとうの愛を知った時、私たちは本当の愛をつかむことができるでしょう。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.13
  • 14:24

No.022 素直な心

伝道シリーズ第1弾 No.022 素直な心

菩提心、それは仏の道に入り、悟りを求める心を意味します。

もちろん幼い子に、そんなむつかしい道理が分かるはずがありません。
ところがあるお経には「童子が戯れに沙を聚めて仏塔を作ったり、仏の像を描いたりするのもこれまた仏道である」という教えが出てきます。

仏さまの眼から見れば無心に遊ぶ子供たちの姿の中にも、菩提心はあるということなのでしょうか。
そういえば、幼い子供は、みよう見真似で小さな手を合わせます。
それにどんな意味があるのか、なぜそうなるのか知らないままに合わせる両の手。
それでいながら、そこには不思議なほど仏さまの世界との一体感が感じられます。

言い方をかえれば、大人より子供たちの合掌の姿の方がずっと絵になるのです。
子供は純粋無垢という点で私たちより仏さまの世界に近いのではないでしょうか。

だから素直な心そのものが菩提心と受けとめてみてもいいのかもしれません。

なぜなら私たち大人でさえ、あの日の穢れなき童心に戻りたいと願って手を合わせているのでは、と思いあたることがあるからです。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.13
  • 14:28

No.23 雲の上は、いつも青空

伝道シリーズ第1弾 No.23 雲の上は、いつも青空

雲水と言えば、行方を定めず行脚する修行僧のこと。
これは「行雲流水」という言葉に由来します。

人は、空を行く雲と流れる水のように、自然に身を任せた生き方に僧のあるべき姿を求めたのでしょうか。
こんな時、ふと目に浮かぶのは、青空にポッカリ浮かぶ白い雲ですよね。

でも、仏教には〈雲心〉という言葉もあるんです。
これは逆に、雨雲に覆われたような鬱陶しい、心の晴れない状態です。
思わず、「来年の今月今夜、再来年の今月今日のこの日を僕の涙で曇らしてみせる」といった『金色夜叉』の貫一の恨み節を思い出しました。

こんな雲は、迷い雲。
それを見事に払いのけたのは維新の先駆者、吉田松陰でしょう。
彼は、「事態が悪化し、豪雨の前の空のように陰々として暗くなればなるほど、その密雲の上の固有の蒼天(青空)を思うらしい。
むろん、誰の目にも見えないのだが、松陰の目には網膜が青く染まるほどのあざやかさで、(蒼天を)思うようであった」と司馬遼太郎は語っています。

先行き不透明と言われるこの時代ですが、

私たちも恨み嘆くより、雲の上の空を見る心こそ、今必要な時なのではないでしょうか。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.13
  • 14:33

No.024 自然の声

伝道シリーズ第1弾 No.024 自然の声

秋は、爽やかという言葉が、ぴったりと来る季節。
肌を撫でる風が、夏の疲れも癒してくれます。

風の便りに聞けば、たれパンダなるキャラクター商品があるとか。
その人気の秘密は、垂れ目のパンダの頼りなさそうな顔を見てると、なぜだか心が癒されるからだそうです。
もっとも、ある人に言わせると、「あんな人形のどこがいいのか」と不思議がっていましたが、人それぞれ、それはそれでいいのじゃないでしょうか。

ところで、秋を演出してくれるもう一つのものと言えば、なんと言っても虫の声。
リーンリンと鳴く鈴虫や、チンチロリンという松虫の音は、秋の夜をいっそう思い深いものにしてくれます。
おっと忘れていたのがクツワムシ。
決して美しくはないけれど、あのガチャガチャという音は、「儂も頑張ってるぞ」とその存在をアピールしています。

きっと、昔日の修行僧も、自然の声に耳を傾けていたことでしょう。

名僧・高僧の思索には、遠く及ばないけれど、疲れた心を癒すという意味で、虫の声にわが心を聞くことも良いのではないでしょうか。

もの思いにふける、それはやっぱり秋ですね。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.13
  • 14:37

No.025 名前より本質

伝道シリーズ第1弾 No.025 名前より本質

フランスのパスカルという思想家の言葉に「人間は考える葦(あし)である」という言葉があります。

数学者でもあり物理学者でもあった彼は、実によく物事を考える人でした。
台風情報でよく耳にする“ヘクトパスカル”という気圧の単位は、彼が発見した圧力の原理に因んで、付けられたものです。

しかし、そんなに偉いパスカルでも、この名言の後には、「されど弱き葦である」といい遺しています。
葦は、川や沼の岸辺に群生し、二~三メートルにも成長するイネ科の多年草ですが、背が高いために風にも靡きやすくなります。

それと同じように、人はなかなか信念の定まらない者です。

イカを干した鯣(するめ)のことを、あたりめなんて言ったりもしますね。
それと同じ感覚なのでしょうか、昔の人は、「あし」という読みは、「悪し」を連想させるからと、「よし(善し)」と読みかえたのだそうです。
葦の茎で作ったすだれを葦簀(よしず)と言いますよね。

だけど、「葦(よし)の随から天覗く」と言うような狭い量見の人にはならないように、お互いに努力をしましょう。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.13
  • 14:43

No.026 志(こころざし)を大きく

伝道シリーズ第1弾 No.026 志(こころざし)を大きく

私たちの国の名は“日本”、それは日の出る本の国という意味です。
ニホン、あるいはニッポンと音のまま読むようになったのは、奈良時代からだとか。
それ以前は、日本と書いても「やまと」と読んでいたそうです。

ところで、飛鳥時代、推古天皇の摂政だった聖徳太子は、当時、中国大陸を統一していた隋という国と国交を結ぼうと考えました。
いわゆる遣隋使の派遣です。

その『国書』の最初にしたためられたのが、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」という言葉。

これを見た隋の王さまは、カンカンに怒ったそうです。
小さな島国の主が、大国の皇帝に対して、なんという無礼だと思ったのでしょう。

しかし、太子のこの堂々たる態度が後に王さまを感服させ、対等な国交を開かせるもとになったと言います。

世界的不況の中、何かと言えば袋叩きに遭っている現代の日本。
日はまさに沈まんとしている感があります。

こんな時こそ、日本国民としてのプライドを持ちましょう。
決して卑屈になることはないのです。
大いなる平和を求める国、大和(やまと)。
たとえ国土は小さくても、志は大きくあらねばならないと思うのです。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.13
  • 14:48

No.027 掌中の珠

伝道シリーズ第1弾 No.027 掌中の珠

たまごっち」というゲーム機が、大流行したのを憶えていますか。
日本中、どの子もこのオモチャを欲しがり、アメリカでもブームを巻き起こし、はては中国製の贋物までが登場する始末でした。

でも流行というのは、いつの時代もはかないもの、いつの間にか忘れ去られ、夢中になった子供達も、いまでは大人になりました。

しかし、このゲーム機が爆発的な人気を得た理由を、私は忘れません。
「どこが面白いの?」と尋ねたら、「タマゴが、ひよこになり、どんどん成長すること」と子供達は素直に答えました。
一人っ子だったり、兄弟姉妹の少ない現代っ子には、年下の子の面倒を見るという体験が、ほとんどありません。
だけど、彼らの心の中にも、そんな優しさがあると知って、なぜか、ホッとしました。

『掌中の珠』という言葉があります。
手の平の中にある珠、「最も大切にしているもの」という意味ですが、愛する我が子の喩えとしてもよく使われます。

仏さまは、他者を愛おしむ気持は、誰の心に中にもあるとおっしゃっています。

それならばあなたも手を合わせて、心の玉子をあっためてみませんか。
きっと可愛いひなが誕生することでしょう。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.13
  • 14:52

No.028 愛の鞭

伝道シリーズ第1弾 No.028 愛の鞭

言うのも、言われるのも嫌なのが小言。
しかし、言うべき時には、嫌われてでも言っておかなければ、大事になりかねません。

「仏の顔も三度」という言葉があるのはご存知でしょう。
いかに慈悲深い仏さまでも、三度も顔を撫でまわされては、怒ってしまうという、これは狂言「貰い聟」に出てくる台詞だとか。

でも、悟りをお開きになった仏さまです。
顔を撫でたくらいで、本心からお怒りになるとは思えません。
そこで、怒ったふりをなさったのだと考えてみました。

時として、私たちは相手の恐い顔を見て、ハッとすることがありますよね。
たとえば、お不動さまや鬼子母神さまは、とても怖い顔をなさっています。
「どうして、あんなお姿を拝むのですか?」と尋ねる人もいますが、あれは私たちの心の中に起る煩悩や魔を降伏せんがために表している形相だとか。

やさしい顔ばかりしていては、甘やかし、かえって人間を駄目にしてしまうとお考えなのではないでしょうか。

世間にも“愛の鞭”という言葉があります。
本当に、相手のことを思うのなら、時には厳しい言葉も、必要ではないでしょうか。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.13
  • 14:55

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