伝道シリーズ第1弾 No.011-020

No.011 光る汗、輝く涙

伝道シリーズ第1弾 No.011 光る汗、輝く涙

人生をふり返った時、笑顔で思い出せるものは、いったいなんでしょう。

苦あれば楽ありという人生、それは「あの時、よく耐(た)えたな」といえる、苦しみを乗り越えた体験ではないでしょうか。
人間、おかしなもので、投げ出したくなったあの日のことが、今となっては懐(なつ)かしいと思えるようになるものです。
それは心の中に、自分は体当たりで頑張ったという満足感があるからでしょう。

お経の中には、「不自惜身命」(ふじしゃくしんみょう)という言葉があります。
「真理を求めるためには、自ら身も命をも惜(お)しまない」という意味です。

何事にも大切なのは意気込みです。
その意気込みがあれば、苦は苦でなくなります。
積極的に生きてこそ道は開けます。

御身大事(おんみだいじ)という消極的な生き方は、かえって苦に押し潰(つぶ)されてしまいます。

体は動かすために、心は感動するためにあるのです。
精いっぱい働いて流す汗は光ります。
思わずこぼれた涙は、いつの日か輝くものです。

あなたの努力を、み仏さまは、いつもご覧になっています。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.13
  • 12:39

No.012 優しさと厳しさ

伝道シリーズ第1弾 No.012 優しさと厳しさ

子育てに愛情は不可欠です。
ところが、あり過ぎても困るのが、この愛情。
昔から「乳母日傘(おんばひがさ)」の喩(たと)えもあるように、後生大事に育ててばかりいては、子供は出来そこないます。
いわば、それは愛情の逆作用。

発句経には、「愛より愁(うれ)いは生(しょう)じ、愛より怖(おそ)れは生(しょう)ず」との警句が発せられています。
人は、愛する故に悩み、苦しむ生き物なのでしょうか。

お経には、「有情」(うじょう)という言葉も出て来ます。
これは、「衆生(しゅじょう)」と同じく、生きとし生けるものを意味しますが、仏さまは、生きてこの世にあるものは、すべて感情を持つものだとお考えなのです。

だからこそ、私たちが愛や情に溺(おぼ)れ、身を滅ぼさないようにと真理を諭(さと)されます。
それは、仏さまにとって、私たち衆生が、みんな我が子のように思えるから。
時として厳しく戒められるのは、多くの失敗をご覧になっているからです。

それならば、私たちも子育てや人づくりの中に仏さまの教えをいただかねばなりません。

子供は、いつの日か一人立ちせねばならないもの。
仏さまの願いも親の願いも、それより外(ほか)ないのですから。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.13
  • 12:43

No.013 いのちの可能性

伝道シリーズ第1弾 No.No.013 いのちの可能性

「∞」、これは数学の記号で無限大を意味します。
無限大とは、限りなく大きいということ。
仏さまの慈悲の大きさを表すとすれば、この記号以外にないかもしれません。
これに対して無限小という言葉があります。
もちろん反対の限りなく小さいという意味です。
でも、どんなに小さくても、目に見えなくても、ゼロ、すなわち、ないという意味ではありません。

無限小は、無限大になる可能性を秘めた存在なのです。
たとえば、どこから飛んで来たか分からないタンポポの種でさえ、風に乗り、土に落ち、縁さえあれば、春の訪れと共に芽を出し、花を咲かせます。
他の花に較べ、それほど美しくはないけれど、タンポポは全世界に分布しているのだそうです。
素晴らしいとは思いませんか。

仏さまの教えも、これに似ています。

お釈迦さまがインドの大地で咲かせた花が種となり、風に乗り、シルクロードを旅して、中国から朝鮮、そして私たちの国日本に根を下したのです。

人は、その「∞」のいのちの世界に気づいていないのかもしれません。
でも、仏さまの教えは知らぬ間に、あなたの心に、ちゃんと種まかれています。
大慈大悲という春の光の下(もと)で。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.13
  • 12:47

No.014 恵みの雨

伝道シリーズ第1弾 No.014 恵みの雨

「鬱」という字は、「ウツ」と読みます。
読むのも、書くのも大変な字です。
でも、この字でできた言葉を、私たちは、意外と使っているのです。
たとえば、ストレスの多い現代社会では、人々の不平不満は、「うっ積」しています。
そして、そんな状態が長く続くと、心は「憂うつ」になってしまいます。
まして、どんよりした梅雨空と眺めると、気分は、「うっ陶しく」なるんじゃありませんか。

でも、そんな時、心をなごませてくれるのは、紫陽花の花ではないでしょうか。

誰もが、いやがる雨の中で、いきいきしているその姿を見ると、水ってやっぱり大切なんだなと考え直させられます。

かつて私たちの国、日本には、瑞穂国(みずほのくに)という美しい言葉がありました。
瑞穂とは、みずみずしい稲の穂で色どられた平和な世界というのが、古代の人々がイメージした私たちの国ではなかったでしょうか。

休耕田が増え、荒れ果てた農地が多くなった風景を見るにつけ、渇ききった現代人の心を思わずにはおれません。

「鬱」には、こんもりと生い茂るという意味もあります。
雨を恵みと受けとめる心のゆとりを取り戻したいものですね。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.13
  • 12:52

No.015 学ぶ心得

伝道シリーズ第1弾 No.015 学ぶ心得

物事の真の姿をはっきりと見きわめる心のはたらきを「心眼」といいます。
もちろん物事を見るはたらきは、目がします。
でも心がしっかりしていないと、目は清浄(しょうじょう)なはたらきをすることができなくなります。
目が見えるばっかりに、かえっていろんな迷いを起こしてしまうということにもなりかねません。
だから物事を知ろうとする時には「心の眼で見よ」と仏さまは説(と)かれるのです。

まず物事は平静な心で見ることです。
そうすれば、正しい判断ができます。

そして学ぶ心で見れば、どんな物事からも、なにかを教えられ、素直な心で見れば、生かされている生命(いのち)の尊さに感動します。

見識(けんしき)とは、よくいったもので、見るとは識(し)ることの大本(おおもと)です。
だからなんでも、よく見なければなりません。
私たちは生まれた時からまわりの物の見よう見まねで大きくなって来ました。
学ぶという言葉のもとは「まねぶ」だといわれます。

どうせ真似(まね)るなら、よりよく真似なければなりません。
心が曲がっていては、間違った真似をしてしまいます。

私たちが正しく生きようと心がける時、まわりの物は、みな先生として目に映るのです。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.13
  • 12:59

No.016 信仰の機織り

伝道シリーズ第1弾 No.016 信仰の機織り

お経といえば、仏さまの教えのこと。
でも、〈経〉という字を引くと、ちょっと違った意味に出会います。

それは〈タテ糸〉という意味、布施のもとになるタテ糸のことです。
ヨコ糸は〈緯〉といいます。
今でも地球上の位置を示すのに、経度、緯度という用語に、この意味が使われています。

さて、機を織るには、まずこのタテ糸を張り、次にヨコ糸を織り込んでいきます。

このことからタテ糸は、つねにまっすぐに通った道、すなわち“不変の道理”という意味に転じ、教えをあらわす書物を〈経〉と呼ぶようになったのです。

こう知れば、仏さまの教えは宇宙に張りめぐらされた真理のタテ糸。
ヨコ糸を織りこむのは、今生きている私たちではないのかと考えられます。

どんな真理でも、それを活用する人間がいなければ、この世にはあらわれません。

だから、仏さまは、私たちに信仰の機織りをしなさいと呼びかけてくださっているのではないでしょうか。

心に仏さまとのご縁を結び、それぞれの人生模様を織りこんでください。
それが、あなた自身の布教にもなるのです。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.13
  • 14:04

No.017 因果の種蒔き

伝道シリーズ第1弾 No.017 因果の種蒔き

仏さまは因果の法を説かれます。この世に在るものには、すべて原因があり、その結果は必ず生じる。
一言で言えば、簡単なこの法も、現実に目を向けると、矛盾だらけ。
善人がしいたげられ、悪人がのさばってる世の中に「何が善因善果、悪因悪果だ」と文句を言いたくもなります。

でもそんな私達の不平不満を、仏さまはとっくに、お見通し、「善を施すに、その報いを求めてはならない」と戒められます。

「それじゃあ、善いことをするだけ損だ」と反論する人がいるかもしれません。
しかし「善いことをできるだけ、自分は幸せだ」と素直に受けとめる人もいます。

だからこの法は、善因楽果・悪因苦果だと考えるべきだとも言われます。
善いことをすれば、心が楽になり、欲の苦の海から救われるという解釈です。

たとえ貧しくとも、今をありがたいと生きている人、いくら財産があっても、心のゆとりを持たない人、その結果がどうなるか想像がつくでしょう。

仏さまの説かれるように、やはり因果の種はちゃんとその芽を出すと考えるべきなのです。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.13
  • 14:07

No.018 忠告を聞ける心を

伝道シリーズ第1弾 No.018 忠告を聞ける心を

他人に自分の欠点を指摘されるのは、決して愉快なことではありません。
時には「余計なお世話」と腹の立つことさえあります。

しかし、こちらのためを思って言ってくれると感じたら、あまり我を張るのは考えものです。
やたら、拒否反応を示すばかりでは、「この人は度し難い」と、相手からもソッポを向かれてしまいます。

〈度す〉とは〈救う〉という意味の仏教語です。
いくら、仏さまのような人でも、相手にその気がないと救う手立てがありません。

欠点は誰にでもあります。
それも、他人から指摘されて、初めて気づく場合が多いのです。

心に「よくぞ注意してくれた」というゆとりを持ちましょう。

そう心がければ、たとえ悪口と思える言葉でさえ、こちらの受け取り方しだいで善言にも転じてくるのです。
ひょっとしたら、恨む気持ちは消え、感謝の念さえ起こるかもしれません。

あの時言われた一言に、いつまでもこだわるより、今ではそれが心の道標になったと思える生き方を求めてください。
〈人間、いわれるうちが花〉という言葉もあるのですから。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.13
  • 14:11

No.019 彼岸への渡し船

伝道シリーズ第1弾 No.019 彼岸への渡し船

彼岸とは、仏さまの悟りの世界、それに対して私たちの住む迷いの世界を此岸と呼びます。

この二つの世界の間に流れているのが三途の川。
この川には、その名のごとく火途(地獄道)・血途(畜生道)刀途(餓鬼道)の三つの瀬があり、人は死後、その行いや罪の重さによって、いずれかの途を渡らねばならないといいます。

そこで仏さまは人々に「今までの生き方を悔い改めよ」と懺悔の法を説き、救いの“船”を用意されるのです。

どんなに大きな石でも、船に乗せれば水に浮かぶように、罪の重さで、苦しみの底に沈もうとする人々に、大切なのは素直に反省する心です。

自分は何一つ悪いことをしていないから、そんな必要はないなんて思わないでください。

たとえ小さな針でも、そのままでは水の底に沈んでしまいます。

迷いの岸から、悟りの岸へ。
あなたの合わす手と手の中に、仏さまの“渡し船”はいつでも用意されているのです。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.13
  • 14:14

No.020 仏性の傘

伝道シリーズ第1弾 No.020 仏性の傘

一日降っただけでも、うんざりする雨。
そのくせ人は雨に思いを託し、いろんな詩をうたいます。

それは渇ききったこの世の中に、せめてもの潤いが欲しいと願うからでしょうか。

幼い頃うたった♪雨、雨ふれふれ、母さんが、蛇の目でお迎え、うれしいな。
ピチピチ、チャプチャプ、ランランラン♪という童謡を思い出します。
傘を持って迎えに来てくれた母・・・。
時代がドライになればなるほど、こんな情景が懐かしくなるのかもしれません。

だから人生の寂しさや、やるせなさは、あたかも私たちの心の中に降りしきる雨。
誰かがそっと傘を差しかけてくれるのを待っているのです。

そんな時、出会った人の情けは身にしみます。
ずぶ濡れで冷えきった体に、ぬくもりが戻ってくるように「生きていてよかった」という温かい感動が甦って来ます。

ひょっとしたら私たちは、こんな心のふれあいを知るために、この世に生を受けているのかもしれないのです。

無情の雨というなかれ。
それは時として乾天の慈雨となることもあるのですから。

(寺の友社 教宣編集室 謹製)

  • 2022.07.13
  • 14:18

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