蓮の実通信 No.001-010

No.001 中道(ちゅうどう)と

蓮の実通信 No.001 中道(ちゅうどう)と

私は怒りっぽい質(たち)です。
すぐに、カーッとなる性分で、みんなから「瞬間湯沸かし器」みたいだと冷やかされます。
母は「人を導かなければならないお坊さんが、そんな気の短いことでどうするの」と私をさとします。
確かにその通り、お釈迦さまは、人間をダメにする三つの毒のうちの一つに「いかりの心」すなわち、むやみに腹を立てることを挙げておられます。

しかし、今の世の中で、あなたは腹を立てずに生きられますか。
不安、イライラ、これを我慢していたのでは、ストレスがたまり、ノイローゼになりそうです。

現代の若者は、無気力、無関心、無責任の三無主義だといわれます。
社会になんらの興味を示さず、小さな自分の世界に閉じこもっている若者たちが増えました。
彼らは、今の社会に腹を立てる気力さえ失ったのでしょうか。
お釈迦さまが「むやみに腹を立てるな」とおっしゃるのは「無気力、無関心になれ」というのではありません。

仏教には「中道」という言葉があります。
まん中の道という字を書きます。

それは「極端な道に走ってはいけない」という意味です。

お釈迦さまの弟子にシュローナという人がいました。
彼は大金持ちの家に生まれ、大事に大事に育てられました。
ところが、彼は一念発起してお釈迦さまの弟子となり、誰にも負けないような修行をしていました。
その為、無理をしすぎて、足の裏が破れ、血だらけになりました。
その時、お釈迦さまが、「シュローナよ、お前の好きな琴の音は、糸を強く張った時にいい音が出るのだろうか、それとも、ゆるめて張った時にでるのだろうか」とお聞きになりました。

シュローナは、「強くても、ゆるくてもいけません」と素直に答えたのです。
「その通りだ、シュローナよ。人も、また、極端な道をとる限り、決して、いい修行はできないものだよ。なまけず、無理をせず、自分の道を歩んでいくことが仏の道なのだ」とおさとしになりました。

今の世の中、むやみに腹を立てるか、無関心になるか、という両極端の人が増えています。
健康的な腹の立て方、そんな方法を考えてみるのも必要な時代 ではないでしょうか。

(M・N)

  • 2022.07.13
  • 10:12

No.002 遅刻した法事

蓮の実通信 No.002 遅刻した法事

先日、あるお宅の法事に出掛けた時の事、予定より少し遅れて到着した私に、「みんなが首を長くして待ってますよ」と、奥さんが言いました。
「どうもどうも」と言いながらも、腹の中では「十分ぐらい遅れたぐらいでいや味をいうな」と思っていたのです。

日頃愛想のいいご主人も何故かブスッとした顔をしています。
そんな事にはお構いなしで、お経を読み「次のお家がありますから」と、雰囲気の悪さにロクに口も聞かないでそのお宅を出ました。

さて、その次の家でのご回向を終え、「今日の仕事も、これですんだ」とホッとして、その家の時計を見ると、三時十五分、私の腕時計を見ると二時四十分、「お宅の時計ずい分、すすんでますね」と注意すると、「いえ、ウチの時計は合ってますよ」という返事、「えッ」と驚いたのはこちらです。
「それじゃ、あの家には約束の時間より四十五分も遅れて行ったんだ。ブスッとするのは無理ないな」とそう気がついた時から、後悔が始まりました。
「こんな事なら、もっと丁寧に謝っておくべきだった。きっと横着な坊主だと思っているだろうな」と悔んでも取り返しはつきません。

でも反省すべき点は反省しなければなりません。
その第一は、いつも時間ぎりぎりでなければ行動しない、私の余裕のなさ。
第二は自分の腕時計を過信しすぎたことです。
確かに最近の時計は、精巧になったけれど、狂わないという保証はありません。
これと同じように、私たちは、しばしば 自分の無反省な判断のもとから、大きな失敗を犯すことがあります。
俗に「自分の物指しで、他人を判断するな」といいますが自分勝手な基準で、他人を正しいとか、間違っているとか決めつけやすいもの。
はたして、これでいいの でしょうか。

お釈迦さまは、行動を起こす時には、「心を落ち着け、我が心の執着を離れ、しかる後に立ち上がれ」と教えていらっしゃいます。

この教えに私はそむいていたのです。
今まで大丈夫だったから、今度も間違いないという安易さの中で、他人に 迷惑をかけてしまったこの失敗、もっと余裕をもち自分をふりかえる時間があったなら、こんな事はなかったはずです。

あらためて、自分を反省し、すぐにその家にお詫びの電話をしました。
まさに「過ち改むるに憚(はばか)ることなかれ」という先人の教えを思い出したからです。

(J・N)

  • 2022.07.13
  • 10:12

No.003 ブッダ・バイ

No.003 ブッダ・バイ

「癌(がん)になってよかった」、そんな事を思う人はいないでしょう。

ところが「癌になってよかった」と本心から思い、『癌になってよかった、いのち輝け』という本を、出版した人がいます。
いえ、いたといった方が正解でしょう。

その人の名は、黒田英之さん。
北九州の、お寺の住職です。
平成四年九月、〈全日本仏教徒・九州大会〉が、北九州市で開かれることになり、黒田住職は、その責任者として活躍されました。
しかし、その直後、直腸癌であることが分かったのです。
そしてその翌年には肝臓癌、さらに平成六年には癌が肺に転移していることが告げられました。

「先生、私はあと何年生きられるでしょうか」と、尋ねた黒田住職。
「強いて申し上げるなら二年半です」そう答える医師に「よかった。明日死ぬ、明後日死ぬでは、死の準備ができません。二年半あれば充分です」
黒田住職は、こう話して、自分に残された短い人生を精いっぱい生きようと決心しました。

「癌になって、よかった」と言ったら、「居直りですか」と聞く人がいます。
しかし、私のこの言葉は決して「居直り」でもなんでもないのです。
癌になると死が目の前にある………死に直面すると、人は生きることを大切にすると語る黒田住職。

「一日一日を大切にして生きると、その毎日に張りが出てくる。だから人から『最近明るくなりましたね』と言われる。『ええ、癌になって明るくなりました』と答える私。『ウソだと思うなら貴方も癌になってごらんなさい、ハッハハ……』そんな冗談がいえるようになりました」とこの本には書かれています。

そんな黒田住職の、一日一日の思いがまとめられて本になったのは平成七年の四月十日です。
友達や檀家の人達が、黒田住職を励まそうと、二十四日に「出版祝賀会」を開くことになり、五百人もの人が集まりました。

その席で、皆に「ありがとう、ありがとう」と、お礼をいった黒田住職は、車椅子に乗ったまま壇上に上がって、こんな挨拶をしました。
「私は、もうそんなに長くは生きられないでしょう。お別れをしなければならない時が来ると思います。

でも、さよならとも、グッドバイとも言いたくありません。私がいいたいのは、ブッダ・バイ。今度は、仏さまの側でお会いしましょう」

このお説教ともいえるご挨拶の言葉にみんなは大きな拍手を送りました。

そしてその一週間後の五月一日、数え年七十歳で黒田住職は、仏さまの下へと旅立っていったのです。

(T)

  • 2022.07.13
  • 10:12

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