交流の広場「微笑苑」

No.008 <愛、その切なさ>

  人を愛することは、なによりも素晴らしいことです。ところが、愛するが故に、私たちは人間として、もっとも愚かな部分を思い知らされるということもあります。
 たとえば、私は誰よりも自分の子供たちを愛しています。仏さまが「愛することは、迷いのもとだ」とおっしゃろうとも。でも、その大切な子供を、立派に育てたいと 思ったら、やはり仏さまの教えを素直に聞かなければならないのかなと思うことがあります。
 クリスチャン作家として有名な曽野綾子さんが、かつてこんな話を紹介していました。
 それは、今から五十年ほど昔の朝鮮戦争の時のこと、一人の若いアメリカ兵が、負傷し本国に送還されることになりました。故郷では、息子の無事を祈って両親が、その帰りを待っています。本国に着いた彼は、病院から家に電話をしました。
 電話に出たのは、お父さんです。息子の声を聞いたお父さんは、大喜びで「すぐに病院に迎えに行くから」と答えました。その時、息子は「パパ、実は、ぼくの他にもう一人、友達がケガをしてね。彼はぼくよりも、もっとひどいケガなんだよ」と 話しました。「どんなケガだ」と聞くと「両足を切り落されている」と答えました。「お願いだから、パパ、彼も家に連れて帰ってくれないかな、彼には身寄りがないんだ」そう頼む息子に「いいとも」と答えたお父さん。すると息子は「一生面倒みて やってほしいんだけど」と頼みます。我が子のことなら、兎も角も、そんな他人の子供までもと思ったお父さんは「そんなことは無理だよ」といって電話を切ると、急いで病院まで車を飛ばしたのでした。ところが、そこに待っていたのは、愛する息子ではなく、愛する息子の遺体だったのです。お父さんは「なぜ?」と絶叫しました。そして、驚くべきことを知らされたのです。
 両足を失ったのは、友達ではなく、息子自身であったということを。彼は、電話をし終った直後に自ら命を絶ったというのです。再び「なぜ?」とお父さんは叫びまし た。息子からその答えが聞かれるはずもありません。ひょっとしたら、彼は、親をいきなり悲しませたくないために、そんな手を使おうとしたのかも知れません。でも、お父さんは「我が子を愛するように、他人の子をも愛する気持ちがあったならば」と涙を流したそうです。
 愛するが故の悲劇、この話の中に、私は「愛」という心のむつかしさを教えられる気がしたのです。 (S・N)

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