蓮の実通信

No.002 遅刻した法事

先日、あるお宅の法事に出掛けた時の事、予定より少し遅れて到着した私に、「みんなが首を長くして待ってますよ」と、奥さんが言いました。
 「どうもどうも」と言いながらも、腹の中では「十分ぐらい遅れたぐらいでいや味をいうな」と思っていたのです。

 日頃愛想のいいご主人も何故かブスッとした顔をしています。そんな事にはお構いなしで、お経を読み「次のお家がありますから」と、雰囲気の悪さにロクに口も聞かないでそのお宅を出ました。

 さて、その次の家でのご回向を終え、「今日の仕事も、これですんだ」とホッとして、その家の時計を見ると、三時十五分、私の腕時計を見ると二時四十分、「お宅の時計ずい分、すすんでますね」と注意すると、「いえ、ウチの時計は合ってますよ」という返事、「えッ」と驚いたのはこちらです。
 「それじゃ、あの家には約束の時間より四十五分も遅れて行ったんだ。ブスッとするのは無理ないな」とそう気がついた時から、後悔が始まりました。「こんな事なら、もっと丁寧に謝っておくべきだった。きっと横着な坊主だと思っているだろうな」と悔んでも取り返しはつきません。

 でも反省すべき点は反省しなければなりません。
 その第一は、いつも時間ぎりぎりでなければ行動しない、私の余裕のなさ。第二は自分の腕時計を過信しすぎたことです。確かに最近の時計は、精巧になったけれど、狂わないという保証はありません。これと同じように、私たちは、しばしば 自分の無反省な判断のもとから、大きな失敗を犯すことがあります。俗に「自分の物指しで、他人を判断するな」といいますが自分勝手な基準で、他人を正しいとか、間違っているとか決めつけやすいもの。はたして、これでいいの でしょうか。

 お釈迦さまは、行動を起こす時には、「心を落ち着け、我が心の執着を離れ、しかる後に立ち上がれ」と教えていらっしゃいます。この教えに私はそむいていたのです。今まで大丈夫だったから、今度も間違いないという安易さの中で、他人に 迷惑をかけてしまったこの失敗、もっと余裕をもち自分をふりかえる時間があったなら、こんな事はなかったはずです。

 あらためて、自分を反省し、すぐにその家にお詫びの電話をしました。まさに「過ち改むるに憚(はばか)ることなかれ」という先人の教えを思い出したからです。  (J・N)

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