蓮の実通信

No.025 「父との仏縁」

 「縁は異なもの味なもの」私たちは、まさにその縁によって、色々な人生模様を作って行きます。お釈迦さまが、「この世の存在はすべて縁によって起り、それ独自で存在するものはない」と『縁起の法』を繰り返し説いておられます。私たちにとって、その縁えにし を、正しく知る事が、まさに人生をより尊いものにするのだと言えます。

 私は、父親の顔を知りません。覚えていないと言う方が正確でしょう。私の父は、三十三歳の若さでこの世を去りました。今年、私は三十五歳を迎え、年齢では父を超えた事になります。その父の、三十三回忌法事を営みました。私の年齢で、親の三十三回忌を行なう事もめずらしいと思うのですが、子が出家の身となってみずから法要を営むことは、もっと稀な事かもしれません。
 当日の参列者は、身の近い数人の者だけでしたが、一緒に唱えるお経の声が、私にはとても心よく響き、亡き父もさぞかし喜んでいるのだろうと感じられたものです。「おそらく亡き父も、私が出家をして、自分の法事を営む事など、おそらく考えてもいなかっただろう」そう思いながら、ご回向を進める中で、私はふと、自分の出家の縁は、この父との死別にあるのではないかと思ったのです。
 これまでの私は、尼僧にまでなった母親の、熱心な信仰の姿に影響されて、出家の道に入ったと考えていました。そんな訳ですから、母の願いに叶うお坊さんにならなければと、気負いにも似た使命感をずっと持って来ました。
 しかし、母の強盛な信仰は、若くして夫と死別をした悲しみ、母子家庭という経済的に困難な生活の中から育くまれて来たという事実を、私は三人の子供の父親になって、始めて気づかされたのです。さらに、母がその信仰を自分の心の支えにするばかりではなく、多くの人々にその心をすすめ導く出家の道を、父の死という縁の中から切り開いて来たその姿に、私は今、頭が下がります。

 考えてみれば、父親の居る家庭がうらやましく、さびしい思いをした事、友達がお父さんの自慢話をする中に入っていけなかったくやしさ、様々な思いが幼い頃の自分の姿とともに思い出されてきます。時として、どうにもならない自分のさびしさを、母にぶつけた事もありました。しかし、そんな色々な事が、現在の私に成長させて くれたのだと考えられる様になりました。この世では縁の薄かった父でしたが、 その少ない父との縁の中に、今の私を支えている尊い縁(えにし)がある事を、 あらためて知らされたご法事を終えたのです。 (W)

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