蓮の実通信

No.024 「布教と宣伝の違い」

 先日のことです。自坊に、ある大手新聞の広告社と名乗る人から電話がかかって来ました。「今回、うちの新聞で、お彼岸の特集記事を組むことになりました。つきましては、お宅のお寺さまにも協賛の広告をお願いしたいのですが…」という依頼です。
 「またか」と思った私は、いつものように、即座に断りの返事を口にしました。でも今回は、相手も負けてはいませんでした。「仏教の行事を社会に知らせることは、今の時代、とても大切な布教だと思いますけれども」さすがはセールスマン。こちらのウィークポイントを突いてきます。数分間にもわたる押し問答の末、こちらが出した切り札は「実は、私は住職ではないので、ご返事しかねます。とりあえず、ほかのお寺さんをあたってください」というかなり、情けない逃げの手でした。

 なんとかその場は切り抜けたものの、私は電話の相手とのやりとりが、とても気になっていました。というのもあるヨーロッパの学者が言っていた、こんな言葉を思い出したからです。「確かに仏教は素晴らしい教えではある。しかしキリスト教に比べると、今一つ欠けたところがある。それは仏教には教えを人々に伝え、共に分かちあい、共に活動しようとする意欲に乏しい点である」
 このある種痛烈な批判は、今のお寺の一面を指摘していると言えなくもありません。あまりにも、布教活動に消極的なお寺の布教活動のあり方があるとすれば、それはまさに、社会から仏教を忘れさせてしまいかねない要因の一つになってしまいます。

 しかし、私はあえて「しかし」と言いたいのです。
 つまり仏教は、宣伝の宗教ではないのです。人間の、静かな思索の中から生まれた仏の教えは、やたら目や耳に洪水のように流れ込ませることによって今日まで広まってきたのではありません。むしろ、目や耳に触れるものによって、心を乱されてはならないと説かれたのがお釈迦さまであります。そう考え直して、あらためてマスコミ界を見ると、やたらご利益談義や奇跡を誇る、いわゆる宗教広告が目につき過ぎます。宣伝と布教とは、まったく違うのだと気がつきます。
 宣伝は、当方の存在を一方的にアピールするものですが、布教とは相手のためを思って、仏の教えを広めることです。
 お釈迦さまは、四十五年の間、みずからの足で歩き、法を説き続けられましたが、それは、常に人々の悩みに対して、ひとつひとつその答えを出していくというものでした。
決して、これ見よがしの押しつけではありませんでした。

 確かに現代は、宣伝の時代です。社会に対し、仏の教えを広めることは、とても大切なことです。でも一時的に燃えさかる火のような、煽りに煽ったエセ信仰などよりも、たゆまない水の流れのような信心が大切ではないでしょうか。人々の心にしみるような布教、そんな布教活動のあり方を今こそ私たちは、真剣に考えるべきでは ないでしょうか。   (M)

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