蓮の実通信

No.019 「心をいただく」

 話し上手は、聞き上手と言われます。人の悩みを聞き、その人の立場になって相談にのっていると、僧侶である私自身にとっても、良い勉強になります。

 ある日、とある法事の席でのこと、ご供養も済み、次は会食ということになりました。その時、一人の老人が「久しぶりですなあ、こんなに多勢の人と一緒に食事をするのは」と話し始めました。「私は最近、五十年近く連れ添った家内を亡くしましてね」とその人は寂しそうです。「息子は遠くに就職してるし、娘は嫁にやってしまったし、まったくの一人っきりなんですよ」この話を聞きながら、私は「最近こんな家庭が多くなったなあ」と思いながらも、適当に話を聞き流していました。
 同情はするけど、あまり湿っぽい話は嫌だなと思ったのです。ところが、そんな時には相手の気持も敏感です。「若い方には、そんな年寄りの気持は分からんでしょうなあ」とつぶやかれてしまいました。私は、慌てて「いえいえ」と否定し「それじゃあ、毎日、食事や洗濯がたいへんでしょう」と言いました。すると「そりゃあもう、死なれてみて、女房のありがたさが分かりましたよ。当り前と思っていた事が、その時から全部当り前でなくなるんですから」と、昔を懐かしむかのように、話を続けました。
 その時、私は、「当り前のことが当り前でなくなる」という言葉にドキッとしました。正確に表現すれば、他人の悩みによって、自分の愚かさに気がついたと言った方がいいでしょう。何と、その老人は「だからこうやって、みなさんと食事をすると、ただ料理を食べてるんじゃないんだ、みんなの心をいただいてるんだということが、よく分かるんですよ」と言ったのです。
 「心を食べるんですか」私は、思わずそんな質問をしてしまいました。「そうです。他人さまの心のあたたかさをいただいてこそ、身体もぬくもるんです。それがなければ、生きてはいけないなあ」そう言って、おいしそうに箸を動かす老人の姿を見て、私は「人間」という言葉の意味を、改めてかみしめました。

 ややもすれば、人との付き合いをわずらわしく思い、一人になりたがる私たちです。でも、それは人間という二人以上の社会の中で生きていればこそ。その社会を見失なった時、私たちは初めてそのありがたさに気がつくのでしょう。「でも、ご住職さん、近頃では、死んだはずなのに、家内が側にいるという気がするようになりました。私が炊いたご飯をお仏飯として供えると、一緒に食べさせてくれているようで…」と話すこの老人は、最後に、「今日のご縁も、やっぱり仏さまのお導きでしょうな」と言葉を結んだのでした。    (M)

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