蓮の実通信

No.017 「坊主本来無一 物」

 小学校五年生になる息子と、先生との対話です。新学期になって担任の先生が変わりました。
 「あんたは、お寺の坊ちゃんなの」と聞く先生に、わが息子は「うん」と答えました。「それなら、お父さんの後を継いで、お坊さんになるんでしょう」と聞くと「ぼく、ならないよ」とナマ返事。「どうして、そうしたらお寺がつぶれるじゃない」と聞くと、「お父さんが、ならなくてもいいと言ったもん。だから、ぼく大きくなったらお寺をやめて、マンションに建てかえるよ。その方が、もうかるもん」と言ったそうです。
 これは聞き捨てならない話です。さっそく息子を呼んで、その真偽を糾しました。
 「お父さんはね、お前に坊さんにならんでもいいとは言ったが、お寺をつぶしてもいいとは言ってないぞ。お寺の家や土地は、檀家の人たちみんなのもので、個人のものじゃないんだぞ。だから、勝手に売ったり、こわしたりしてはいけないんだ」と説教すると「フーン、そうなの、ちっとも知らんかった」と反省の色もありませんでした。
 お寺の子は、生れた時から大きな境内に住んで、育ってきたせいなのか、ついついそんな錯覚をしてしまうのかもしれません。私自身も、小さな時には、同じようなことを考えた記憶があります。

 そんな考え方を、根本的にくつがえされたのは、私がかなり大きくなってから。『坊主本来無一物』という言葉に出会った時です。「坊さんという者は、もともと何一つ持たないものだ」という意味のこの言葉。お釈迦さまは出家者には、黄色い一枚の衣と、托鉢のための一つの鉢を持つこと以外には、私物を持つことをお許しになりませんでした。そして、た くわえをすることを厳しく戒められたのです。それは、たくわえによって人は執着を生じ、執着は迷いの元となると知っておられたからです。

 仏の道を求める者は、できるだけ身軽でなければならない。この肉体ですら、縁によって生じ、やがては滅びゆくものである。滅びゆくものに、心を奪われてはならない。
 そう説かれるお釈迦さまの教えは、厳しすぎるようにも聞こえます。しかし主に拝観料で稼いでいる寺院や、いわゆる多角経営をしている現代のお寺のあり方を見ると、私には、お釈迦さまのご指摘がよく分る気がするのです。
 このままでは、法は廃れ、抜け殻のお寺だけが残ることになるような気がしてなりません。
 法は継がず、財のみをあてにする後継者ばかりができたのでは、お釈迦さまに 会わせる顔がありません。
 私が「後を継がなくてもいい」と言った真意を、息子が分かってくれるには、まだまだ時間がかかると思ったのです。  (J・N)

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