蓮の実通信

No.015 「自分のために読むお経」

   先日の事、ご法要が終わってのお膳の席で、突然「なんでお経を読むのですか」と質問されました。聞いてきたのは今年三十歳になる息子さん。お父さんの一周忌を終えて、この一年間、何度も繰返す、長いお経を聞きながらいつも疑問に思っていたと言うのです。
 今までお経を聞く機会も無かった彼にとっては、素直な疑問なのです。彼の真剣な顔を見ていると「亡き人への追善供養のために読むんですよ」といった説明では、納得してもらえそうにありません。私は返答にとまどってしまいました。すると彼が「ご法事を、世間一般の儀礼と見るならば、親しい人が集まって個人を偲び、思い出話しに花を咲かせる方が、よほど供養になるんじゃないですか」と言い出したのです。
 それはまるで「意味のわからないお経を、足をシビレさせて聞いている事に一体何んの意味があるんですか」と言われているように私には受け止められたのです。このままでは、お坊さんも必要ないと言われそうです。

 そこで私は「お経は、お釈迦さまのお言葉なんです。確かにご法事でお経をあげる事は、一つの儀礼と言えるでしょう。でもその儀礼の中に、亡き人へお釈迦さまの教えを説いて聞かせるという大切な意味が含まれているんです。生前は忙しさに追われて、仏さまのお言葉に耳を傾ける事の少なかった故人のために、仏さまの教えを説いているんですよ」と答えたのです。
 「それじゃ、ご住職はお釈迦さまに代ってお経を読んでいるのですか」と彼はまた聞きます。その時、私はとっさに「いえ、私も一緒に仏さまの教えを聴聞しているんですよ」と答えたのです。そして「お経は亡き人のためばかりではなく、自分自身のために読むという心掛が大切なのです。だから、お経を読む前に唱える『開経偈』という偈文の中に、お釈迦さまの教えは深遠にして、最高の真理の教えであり、そのような教えに出会う機会は滅多に無い事だ、そのまたとないチャンスに恵まれて、私は今その教えを聞く事ができた。願わくば、この如来の真実義の教えを学び取りたい。と、お経に触れる者の決意が示されています。つまり、お経は亡き人と共に、私達が一緒に仏さまの教えを聴聞して、仏の子としての生き方を学ぶために読んでいるんですよ」と話したのです。
 すると彼は、「それで、ご住職は経本を配って、一緒に読んでいたのですね」とうなずくように言ったのです。
 ほっと私は、胸をなでおろしたのです。(W)

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