蓮の実通信

No.013 「友はタクシードライバー」

  仏さまの教えは、乗り物に喩えられます。大乗仏教とか一乗妙法蓮華経とか言う「乗」という言葉がそれです。
 さて、乗り物は、乗るだけでは意味がありません。それに乗って、何処かに行くという目的がなければ乗った甲斐がありません。だから乗り物に乗せるというのは、仏さまの場合、私たちを迷いの世界から悟りの世界へ、悩みの世界から安心の世界へと運んでやろうという願いがあるのです。
 ありがたいことに私たちは、乗り物に乗りさえすれば自分たちが動かなくても別の場所に移動することができます。しかし、乗り方を間違えれば、とんでもない場所に連れて行かれることもあるので、十分注意しなければなりません。

 もう随分昔のことです。大学を出たばかりの頃、私は、ネオン街に出掛けるのが、何よりの楽しみでした。たとえお金がなくても、その辺りを一周してこないと、気が落ち着かなかったのです。
 そんなある夏の夜のこと、「今日はどこに行こうか」と、ウロウロしていると「おい」と言う声がします。まさか、自分を呼んでいるとは思わなかったので、知らんふりをしていると、今度は「坊さん」と呼びます。「俺のことか」と気づいてキョロキョロすると、「ここだ」とその声の主が言うではありませんか。よくみれば、なんと声は、客待ちのタクシーの中からします。そしてドアが開き、運転手が「俺だよ」と頭を出しました。「なんだお前か」それは何と中学時代の同級生だったのです。
 「久しぶりだな」というと「まあ、車に乗れよ」と後ドアを開けました。勧められるままにリアーシートに座ると「商売だから、メーターを倒すぞ」と彼は言いました。「それで今からどこに行くつもりだい」と聞くのです。街に出たばかりの私には、まだどこといって行く当てはありませんでした。そこで「どこでもいいよ」と曖昧な返事をすると「そんな返事じゃ運転できん。だいたい坊さんがこんな時間、こんな所でウロウロしているのはよくない。お寺に帰れ」と言って、有無を言わさず車をスタートさせたのです。そんな訳で、私はその夜、あっという間にお寺に連れ戻されてしまいました。

 仏さまの教えという乗り物も、このタクシーのように、私たちを誘惑の巷から、悟りの世界に連れ戻すためにあるのかもしれません。
 それなら乗車拒否をせず、素直に手を合わせて乗せてもらいましょう。あまりウロウロしていると、今度はとんでもない車に乗せられて、一生後悔しないとも限らないからです。   (J・N)

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