蓮の実通信

No.009 「貸した傘」

 「借りた傘、雨が止んだら邪魔になる。親の恩、嫁を貰えば邪魔になる」、こんな言葉を目にしました。
 なるほど、雨が降り出したときに貸してもらった傘は、実にありがたいものです。ところが、雨が止むと途端にこの傘が邪魔になってしまいます。そして、お礼を言うことはおろか、その傘を返すのを忘れてしまうのです。

 先日、車を運転している時、聞くともなく聞いたラジオの投書番組で、中年の女性のこんな告白を耳にしました。それは、およそ二十年ほど前の夏の夕方のこと。突然、降り出した雨に、あわてて洗濯物を取り込もうと庭先に出た彼女は、向かいの家の軒先にたたずむ、一人の少年を目にしました。
 見れば少年は、小脇にはさんだ新聞の束を濡らさないようにしっかりと抱えています。家計を助けるためのアルバイトなのでしょう。彼女は、この新聞配達の少年に同情しました。「傘を貸してあげよう」と思い、急いで家の中に戻りました。そして新しい傘を手にした時、ふと考えたのです。「でも、貸して返ってこなかったらどうしよう」、そう思い直した彼女は、隅の方にある誰も使わなくなった古い番傘 を選んだのです。
 「これなら捨てるつもりだから惜しくないわ」。そんな彼女の思惑など知らない少年は、「ありがとう」とお礼を言うと、元気よく駆け出して行きました。
 そして、翌日のこと、「ごめんください」という声に玄関に出てみると、昨日の少年が立っています。「昨日はありがとうございました」そういって差し出された番傘に、彼女は、「いいえ」というのが精いっぱいだったのです。
 そして少年の帰った後、その傘を開いてみると、破れた所に、きれいに紙が貼ってありました。少年のお母さんが修繕してくれたのでしょうか。彼女は、昨日の自分が恥ずかしくなりました。「私は、なんてつまらない考えを起こしたんだろう」と思ったのです。そして、こんな態度のとれる少年の家庭をうらやましく思わずにはいられなかったそうです。

 たとえ貧しくても、人の善意に素直に感謝した少年の態度は、この女性の心に爽やかな風を送り込みました。そして、自分も、こんなふうに子供を育てる母親でありたいと思ったそうです。
 あれから二十年、少年も今では成長して、社会でりっぱに活躍しているでしょう。お嫁さんももらい、子供もいるかもしれません。いつまでも恩を大切にし、次の世代にも、心のあたたかさを伝える人であって欲しいと思ったのです。 (M)

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